第9話 送迎ドライバー
女と話したい。
唐突だが、そう思った。
訓練校の隣の席の女の人は五十代で、Excel関数を教えたら「先生みたい」と言ってくれた。嬉しかった。嬉しかったが、そういう話ではない。
Uber Eatsで人と話すのは、レストランで袋を受け取る時の「Uber Eatsです」「ありがとうございます」だけだ。置き配なら一言も喋らない日もある。
リングフィットの相手はAIだ。
二十年間、画面の向こうの人間としか話していない。それが外に出るようになって二ヶ月半、状況は少し変わったが、相手は後藤さんと訓練校のおばちゃんだけだ。
女と話したい。
正確に言うと、若い女と話したい。
もっと正確に言うと、話したいのか触れたいのか好かれたいのか、自分でも分からない。二十年間の引きこもりで、性欲なのか寂しさなのか承認欲求なのかの区別がつかなくなっている。
全部混ざっている。全部混ざったまま、「女と話したい」という一語に圧縮されている。
ゲーマーなら、このステータス異常を「混乱」と呼ぶ。
混乱状態のまま、求人サイトを見ていた。
目に止まった。
「夜間送迎ドライバー。日給12,000円。週2日〜。自家用車持込可」
夜間。送迎。ドライバー。
業種欄に「ナイトワーク関連」と書いてある。
——風俗の送迎か。
二十年間のネット生活で、その手の知識だけは無駄にある。デリヘルの嬢をホテルや客の自宅に送り届けて、終わったら迎えに行く仕事だ。
日給一万二千円。Uber Eatsの夕方四時間分の三倍だ。
しかも——女の子と車で二人きりになる。
混乱ステータスの俺の頭が、この条件に反応した。
仕事で女の子と話せる。しかも金が貰える。
冷静に考えれば、これは仕事であって出会いの場ではない。
冷静ではなかった。
応募した。電話した。電話は怖かったが、もう何十回とUber Eatsの店舗で「Uber Eatsです」と言ってきた男だ。一言二言なら言える。
「車は何に乗ってますか?」
「ワゴンRです」
「軽か。まあ大丈夫でしょう。明日の夜九時に事務所来てください」
事務所は駅前の雑居ビルの四階にあった。
店長は四十代くらいの、シャツの第三ボタンまで開けた男だった。
「運転は慣れてる?」
「最近始めました」
「最近?」
「二ヶ月前に再開しました」
嘘ではない。二十年ぶりに再開して二ヶ月だ。
「まあ事故んなきゃいいよ。安全運転で。飛ばさなくていいから」
ワゴンRで飛ばすのは物理的に難しいので問題ない。
初日。
事務所で待機。電話が鳴ると、嬢の名前と現在地と行き先が伝えられる。
車で迎えに行く。乗せる。目的地に送る。待つ。終わったら迎えに行く。戻す。
——最初の嬢を乗せた時、緊張で手汗がハンドルを滑った。
二十代くらいの女の子だ。疲れた顔をしている。スマホを見ている。俺のことは見ていない。
当然だ。ドライバーは風景と同じだ。タクシーの運転手に話しかける客が少ないのと同じだ。
黙って運転した。
目的地に着いた。「お疲れ様です」と言った。声が裏返った。
嬢は「はーい」と言って降りた。
——これでいい。
これでいいはずだった。
二日目も黙って運転した。三日目も。
四日目、少し慣れてきた。
慣れてきたのが、まずかった。
乗せた嬢が「今日寒いですね」と言った。
会話だ。向こうから話しかけてきた。
「寒いですね」
返した。
「ドライバーさん、いつからやってるんですか?」
「先週からです」
「へえ、新人さんだ。前は何してたんですか?」
——ここで「ニートです」と言えば会話は終わっていた。
「Uber Eatsやってました」
「ああ、配達の。大変ですよね」
会話が成立している。女の人と会話が成立している。
心臓が跳ねた。リングフィットのスクワットより心拍数が上がっている。
ここまでは良かった。
ここから先が、駄目だった。
五日目。別の嬢を乗せた時、自分から話しかけた。
「お疲れ様です。今日も遅くまで大変ですね」
「あ、はい」
返事は短かった。
嬢は疲れている。仕事の後だ。黙って座っていたいのだ。
分かるはずだった。分かるべきだった。
だが「混乱」ステータスの俺には分からなかった。
話しかけたい欲求が、相手の「話しかけないでほしい」信号を上書きしている。
六日目。待機時間にコンビニでお茶を買って、嬢に差し入れた。
「よかったらどうぞ」
「……ありがとうございます」
受け取ってくれた。嬉しかった。
七日目も差し入れた。別の嬢に。
「あ、大丈夫です」
断られた。
八日目。四日目に会話した嬢にまた当たった。
「この前はありがとうございました。あの、もしよかったら、LINE——」
車内の空気が凍った。
嬢の顔が変わった。愛想笑いが消えた。
「……いや、大丈夫です」
声が低くなっていた。
九日目。事務所に行ったら、店長に呼ばれた。
「時田さん、ちょっと話あるんだけど」
事務所の奥の小部屋で、二人きり。
「女の子から何件か報告上がってるんだよね。差し入れとか、LINE聞くとか」
「すみません、気を遣っただけで——」
「気を遣ってくれるのはいいんだけど、距離感がさ。お客さんでもないのに嬢に馴れ馴れしいのは困るんだよね。女の子たち、仕事で疲れてるから。ドライバーに気を遣わないといけない状況がストレスなの」
——距離感。
距離感がバグっている。
二十年間、画面の向こうの人間としか話していなかった男の距離感は、壊れている。
ゲームのチャットでは、知り合ったばかりの相手にフレンド申請を送る。相手が受けてくれたら嬉しい。断られてもダメージは少ない。画面越しだから。
リアルでは違う。
リアルのフレンド申請は、相手の領域に踏み込む行為だ。
しかも相手は仕事中だ。
客ではない男に個人的に近づかれることが、どれだけ怖いか。
——俺は、怖がらせていたのか。
「ごめんなさい」
「まあ、悪い人じゃないのは分かるけどね。ただ、うちとしてはちょっと……」
クビだ。
十日目はなかった。
ワゴンRで帰った。
夜の道を、一人で走った。
九日間で十万八千円稼いだ。Uberの九日分より多い。
だが金の問題ではない。
俺は女の人を怖がらせていた。
親切のつもりだった。話しかけたかった。お茶を渡したかった。LINEを聞いてみたかった。
全部、俺の欲求だ。
相手が何を望んでいるかを、一度も考えなかった。
相手は静かに座っていたかった。
仕事の後に、知らない中年男にお茶を渡されて、LINEを聞かれて、「大丈夫です」と断るためにエネルギーを使わされた。
迷惑だ。
俺は迷惑だったのだ。
——これは、コンビニの失敗とは種類が違う。
コンビニは「できない」だった。レジが遅い。声が出ない。能力の問題だ。
風俗送迎は「分からない」だった。距離感が分からない。相手の気持ちが読めない。
能力ではなく、感覚の問題だ。
二十年間のブランクが、ここに出ている。
能力は訓練で身につく。
感覚は——どうやって取り戻すのか。
分からない。
分からないが、一つだけ分かったことがある。
好意と仕事を混ぜるな。
好きだから近づくのと、仕事で隣にいるのは、別のことだ。
これもスキルツリーの選択ミスだ。「女に会える仕事」という動機でスキルツリーを選ぶと、仕事も女も両方失う。
家に帰った。
リングフィットをやった。いつもより長くやった。四十五分。
汗をかいた。シャワーを浴びた。
鏡を見た。
——少し、変わっている。
腹が少し凹んだ。胸に筋肉の形がうっすら見える。腕が少し太くなった。
コンビニのガラスの男とは、別人になりかけている。
体は変わっている。
頭の中が変わっていない。
距離感が壊れたまま、体だけ変わっても、同じ失敗をする。
女の人と話したいなら、まず「相手が何を望んでいるか」を考えられるようにならないといけない。
ゲームなら、NPCの好感度システムがある。好感度を上げるには、相手が欲しいアイテムを渡す。相手が欲しくないアイテムを渡しても好感度は上がらない。
俺は、相手が欲しくないアイテム(お茶、LINE交換)を押し付けていた。
好感度が下がった。
NPCならリセットできる。
リアルでは——次の相手に、同じ失敗をしないことでしかリセットできない。
次がいつ来るかは分からない。
だがいつか来る。
その時までに、距離感を直す。
どうやって直すかは、まだ分からない。
残金:675,379円
(内訳:証券口座12万8,000円 + 銀行54万7,379円)
※収入:Uber Eats 3週間分(継続) +80,000円
※収入:風俗送迎ドライバー9日分 +108,000円
※収入:求職者支援給付金 +100,000円
※食費28日分(自炊・肉と野菜あり):約16,000円
※ガソリン代(Uber+送迎):約12,000円
※光熱費:約18,000円
※通信費:約11,500円
※求職者支援訓練:出席継続中
※リングフィット:レベル68。毎日継続。体型に変化あり




