第8話 ワゴンR
Uber Eatsは車でもできる。
ネットで調べて知った。自転車かバイクだと思っていた。軽自動車でもいい。
ワゴンR。玄関の横に停まっている。ガソリンは空だが、車検は残っている。自賠責も。
あとはガソリンを入れれば動く。
問題は、二十年間運転していないことだ。
免許更新の時に講習は受けた。だが実車には乗っていない。二十二年前に教習所で乗って以来だ。
——怖い。
コンビニまで歩くのが怖かった男が、車を運転するのが怖いと言っている。
だがコンビニの恐怖は人の目だった。車の恐怖はぶつけることだ。種類が違う。
ガソリンスタンドに行かなければならない。
最寄りのスタンドまで、約二キロ。
乗った。
シートに座った。シートベルトを締めた。ミラーを合わせた。エンジンをかけた。
ブルンと震えた。車が震えたのか俺が震えたのか分からない。
ギアをDに入れた。
ブレーキを離した。
動いた。
「うわ」
声が出た。自分の声に驚いた。
時速十キロで駐車場を出た。左を見た。右を見た。車が来ていないことを三回確認して、道に出た。
時速二十キロ。
遅い。後ろからクラクションを鳴らされた。
三十キロに上げた。
ハンドルを握る手が白くなっている。力を入れすぎている。肩が首にめり込んでいる。
二キロが永遠に感じた。
スタンドに着いた。
セルフだった。
セルフの使い方が分からなかった。
ノズルを取って、車に差して、画面をタッチして、油種を選んで。レギュラー。
隣のレーンのおじさんの動きを三十秒観察してから、同じようにやった。ゲームの操作を動画で見てから真似するのと同じだ。
満タンで三千二百円。
高い。だがこの三千二百円で約四百キロ走れる。Uber Eatsの配達一件あたり平均三キロとして、百三十件分。一件あたりの報酬が平均四百円として、五万二千円分走れる。
投資利回りとしては悪くない。
——ゲーマーの頭が動いている。
帰り道は少し慣れた。時速四十キロまで出せた。
Uber Eatsに登録した。車での配達を選択。
だが日中は使えない。
求職者支援訓練が始まっていた。
朝九時から午後四時まで、毎日。職業訓練校の教室に座って、ビジネスマナーとパソコンの基礎を習う。出席しないと月十万の給付金が止まる。
訓練校は、きつかった。
教室に二十人。同じように職を探している人たちだ。年齢はバラバラ。二十代もいれば五十代もいる。
俺は隅の席に座った。端の席。壁際。逃げやすい場所。コンビニの時と同じだ。
講師が話している。名刺の渡し方。電話の取り方。ビジネスメールの書き方。
正直に言うと、これは辛かった。
名刺を渡す練習で、隣の人と向き合う。目を見て、名前を言って、頭を下げる。
手が震えた。声が裏返った。名刺を落とした。
隣の席の女の人が拾ってくれた。五十代くらいの人で、「大丈夫よ、私も最初は震えたから」と言った。
パソコンの授業は楽だった。Word、Excel、PowerPoint。
周りが「セルって何ですか」と聞いている横で、俺はマクロを組みたくなっていた。二十年前に情報工学科で習ったことが、少し蘇っている。
講師が「Excelが得意な方はいますか」と聞いた時、手を挙げなかった。目立ちたくない。
だが隣の女の人に「この関数、分かる?」と聞かれた時は教えた。小声で教えた。
「すごいわね。パソコン詳しいのね」
詳しいかどうかは分からない。二十年前の知識の残骸だ。だが周りよりは使える。
訓練は午後四時で終わる。
Uber Eatsを回せるのは夕方からだ。
午後五時から九時。ディナータイムの四時間だけ。
だがこの四時間は注文が集中する。夜飯を頼む人間が多い。ゲームのイベント時間帯と同じで、ピークタイムは報酬にブーストがかかる。
最初の注文が鳴った時、心臓が止まるかと思った。
レストランに行く。料理を受け取る。お客さんの家に届ける。
受け取りの時、店員と目を合わせなければならない。
「Uber Eatsです」
声が小さい。
「はい、こちらです」
袋を受け取る。「ありがとうございます」と言う。言えた。
車に戻る。
スマホのマップが目的地を示している。ナビ通りに走る。
届ける。
——置き配。
玄関の前に袋を置いて、写真を撮って、アプリで完了を押す。
人に会わない。
顔を合わせない。声を出さない。ドアの前に置いて、去る。
完璧だ。
これだ。これが俺の仕事だ。
車に乗っている。一人だ。ラジオもつけない。エンジン音だけが聞こえる。知らない道を、マップに従って走る。
ゲームだ。
配達先がクエストマーカーだ。マップ上に表示された目的地に向かって移動する。到着したらアイテム(料理)をNPC(お客さん)に渡す。報酬が入る。次のクエストが表示される。
一件目。四百二十円。
二件目。三百八十円。
三件目。五百十円。ブースト報酬がついた。夕飯時は注文が多いから、報酬が上がるらしい。
初日。四時間稼働。八件配達。報酬四千二百円。ガソリン代約百五十円。純利益約四千円。
コンビニの日給(四千円)と同じ。だが誰とも話していない。しかも四時間だ。
二日目。同じく四時間。九件。四千六百円。
慣れてきた。道を覚えてきた。このラーメン屋は調理が遅い。あのマクドナルドは受け取りが早い。このマンションはオートロックで置き配の場所が分かりにくい。
ゲームの効率周回と同じだ。パターンを覚えて、無駄を省く。
平日は訓練後の四時間。土日は朝から晩まで十時間。
一週間で三万五千円。
二週間で七万円。
三週間で十万円を超えた。
——訓練の給付金十万と合わせると、月二十万。
これだけあれば、食費と光熱費を払って、まだ余る。
しかも体力がつく。
車の配達でも、階段の上り下りがある。エレベーターのないアパートの四階まで駆け上がる。重い袋を持って走る。
リングフィットとUber Eatsの二重トレーニングで、体が変わり始めた。
一ヶ月前のぶよぶよが、少しだけ小さくなっている。腹はまだ出ているが、二重顎が一重半になった気がする。
ズボンが少し緩くなった。
風呂上がりに鏡を見た。昼間の浴室は明るい。
——知らない男がいた。
二ヶ月前にコンビニのガラスに映っていた男とは、少し違う。
まだ太い。まだ白い。まだハゲかけている。
だが輪郭がある。二ヶ月前は顎と首の境目がなかった。今は、ある。
ここに線がある。
顎だ。俺の顎だ。二十年ぶりに見た。
——同じ週に、求職者支援の給付金が振り込まれた。
十万円。
Uber Eatsと合わせて、月の収入が二十万円になった。
二十万。
朝九時から午後四時まで訓練。午後五時から九時までUber。土日は一日Uber。
きつい。きついが、回っている。
支出は食費二万、光熱費二万、ガソリン代八千、通信費一万。合計約五万八千。
差し引き十四万のプラス。
初めてだ。
生まれて初めて、入りが出を上回っている。
黒字だ。
——ゲームなら、ここで調子に乗って大型投資をして全部失うフラグだ。
一回学んだ。株で学んだ。
今回は調子に乗らない。
ただし、最低限の装備は整える。
リサイクルショップに行った。ハローワークの帰り道に見つけた店だ。
冷蔵庫を買った。小型の一人暮らし用。八千円。
フライパンと包丁とまな板。セットで千五百円。
炊飯器。三合炊き。二千円。
合計一万一千五百円。
家に運んだ。冷蔵庫は配送を頼んだ。配送料千円。
冷蔵庫に電源を入れた。
冷えた。
当たり前だが、冷えることに感動した。肉が保存できる。野菜が保存できる。作り置きができる。
フライパンで鶏むね肉を焼いた。塩と胡椒をかけた。
——うまい。
もやしを茹でただけの飯とは、別の食べ物だ。
焼くという行為が、こんなに味を変えるのか。
翌日、スーパーで豚こま肉と玉ねぎを買った。フライパンで炒めて、醤油をかけた。
豚こまと玉ねぎの醤油炒め。
簡単だ。切って炒めて味をつけるだけ。だがこれがうまい。
YouTubeで「一人暮らし 簡単レシピ」を検索した。出てきた動画を見ながら作った。
親子丼。卵と鶏むね肉と玉ねぎ。材料費百五十円くらい。
カレー。ルーが百円、じゃがいもと人参と玉ねぎで二百円。五食分できる。一食六十円。
自炊のレベルが上がっている。
食費は上がった。もやしと卵だけの日は一食三十円だったが、肉と野菜を買うと一日四百円くらいになる。月一万二千円。
だが月二十万稼いでいる男の食費が月一万二千円なら、十分に安い。
何より、腹が膨れるだけではなく、うまい。
うまいものを食って、リングフィットで体を動かして、汗をかいてシャワーを浴びる。
これが「生活」か。
二十年間、知らなかった。
十四万の黒字のうち、十万を貯金する。四万を「次のスキル習得」の予算に回す。
何のスキルかはまだ分からない。
だが対人スキルが枯れていて、肉体労働は持続可能じゃない俺に向いている仕事は、たぶんPCの前にある。
Uber Eatsを回しながら、夜、PCの前でそれを探す。
リングフィットは毎日やっている。レベル四十二になった。
現実のレベルは——たぶん、三くらいだ。
レベル三。
まだ低い。だが二ヶ月前はレベル一だった。
上がっている。
残金:575,379円
(内訳:証券口座12万8,000円 + 銀行44万7,379円)
※収入:Uber Eats 3週間分(平日夕方+土日終日) +101,500円
※収入:求職者支援給付金 +100,000円
※食費21日分(自炊・食材グレードアップ):約14,000円
※ガソリン代:約8,000円
※リサイクルショップ(冷蔵庫・フライパン・炊飯器・配送):−12,500円
※光熱費(電気ガス水道):約18,000円
※通信費(スマホ+固定回線):約11,500円
※求職者支援訓練:出席継続中(皆勤)
★人生初の月間黒字達成★




