第10話 市役所
封筒が届いた。
今度はちゃんとポストを確認している。あの事件以来、ポストは毎日見ることにした。チラシも確認する。請求書が紛れ込んでいるかもしれないからだ。
封筒は市役所からだった。
開けた。
「国民健康保険に関するお知らせ」。
読んだ。
三回読んだ。
半分も分からなかった。
分かったのは一つだけだ。俺は今、健康保険に入っていない。
——え?
今まで病院に行ったことがない。二十年間、歯が痛くても腹が痛くても部屋で寝ていれば治った。治らなかったら母さんが市販薬を買ってきた。
保険証は家のどこかにあったはずだ。父さんの名前が書いてあるカード。
探した。ない。持っていかれたのか。
そもそも、あれは父さんの保険の「扶養」だったのだ。父さんが住所を移したなら、俺は扶養から外れている。
つまり今の俺は、保険証がない。
保険証がないとどうなる。
病院に行ったら全額自己負担だ。普通は三割負担。保険がないと十割。
風邪で病院に行ったら一万円。骨折したら何十万。入院したら——考えたくない。
後藤さんに電話した。
電話ができるようになった。後藤さんへの電話だけは。他の人にはまだ無理だが、後藤さんには声が出る。
「保険のこと? 市役所行って国保の窓口で聞いてみて。あと、年金のことも聞いたほうがいい」
「年金?」
「時田さん、年金払ってた?」
「……払ってたのかどうか知りません」
電話の向こうで、後藤さんが小さくため息をついた。ため息だが、呆れた感じではない。「そうだよな」という感じのため息だ。
「市役所行って、全部聞いてきて。国民健康保険と、国民年金と、あと住民税。三つ。メモして行きなよ」
メモした。
国民健康保険
国民年金
住民税
三つ。三つのクエストだ。
市役所は駅の近くにある。訓練校から徒歩十分。訓練後に寄ることにした。
——市役所に入った瞬間、引き返したくなった。
広い。窓口が並んでいる。番号札を取る機械がある。電光掲示板に番号が表示されている。人が座って待っている。
RPGのギルドホールに似ている。クエストを受注する場所だ。だがNPCの数が多すぎる。どの窓口に行けばいいのか分からない。
入り口に案内の人がいた。
「あの……国民健康保険の……」
声が裏返った。
「二階の三番窓口です。番号札をお取りください」
番号札を取った。八十七番。今、六十二番が呼ばれている。二十五人待ち。
座った。椅子が硬い。隣に赤ちゃんを抱いた女の人がいる。向かいにおじいさんがいる。みんな書類を持っている。
俺は何も持っていない。
メモだけだ。「国民健康保険」「国民年金」「住民税」と書いたメモ。
——四十分待った。
「八十七番の方」
呼ばれた。立ち上がった。足がしびれていた。
窓口に座った。向かいに三十代くらいの女性職員。名札に「佐藤」と書いてある。
「本日はどういったご用件ですか」
「国民健康保険に入りたいんですが」
「はい。現在の保険の状況を教えてください。お勤め先の健康保険ですか?それとも」
「何も入ってません」
佐藤さんの手が止まった。
「何も?」
「はい。最近まで父の扶養だったんですが、父が引っ越しまして」
「お父様が転出されたということですね。では扶養から外れている状態ですね。いつ頃転出されましたか」
「八月……です」
今は十一月だ。三ヶ月間、無保険だったことになる。
佐藤さんが何か入力している。
「遡って加入することになります。八月分からの保険料が発生しますが」
「いくらですか」
「前年の所得によりますが……前年の所得は?」
「ゼロです」
「……」
佐藤さんがまた手を止めた。
「無所得の場合は七割軽減が適用されます。月額約千五百円ほどですね」
千五百円。
安い。思ったより安い。ゲームの月額課金より安い。
三ヶ月分の遡り分で約四千五百円。これは払える。
「あと、国民年金のことも聞きたいんですが」
「年金は隣の窓口です。四番窓口で——」
「あ、あの、番号札また取るんですか」
「はい。別の窓口になりますので」
また並ぶのか。
四番窓口。番号札。百三番。今、八十九番。十四人待ち。
待った。
呼ばれた。今度は五十代の男性職員だ。
「国民年金のことで来ました。払ってなくて……」
「お名前と生年月日をお願いします」
調べてもらった。
結果。
二十歳から四十歳まで、二十年間、年金を払っていなかった。
正確に言うと、大学時代の二年間は学生特例で猶予されていた。その後は——何もしていない。父さんか母さんが払ってくれていたのかと思ったが、払っていなかった。
「二十年間の未納です」
職員が静かに言った。
二十年。
ゲームなら「あなたは二十年間ログインボーナスを受け取っていません」と表示される状態だ。受け取っていない分は遡って受け取れない。
「今後どうすればいいですか」
「今月から加入して、今後の分を払っていくことになります。ただし過去の分は直近十年分まで追納できます」
「追納するといくらですか」
「十年分で約二百万円です」
二百万。
無理だ。今は無理だ。
「追納は後からでもできますか」
「はい。ただし、期限がありますので」
「あと……今の所得が少ないんですが、免除とかは……」
「所得に応じて全額免除、四分の三免除、半額免除、四分の一免除があります。申請が必要です」
申請した。全額免除が通る見込みだと言われた。所得がほぼゼロだからだ。
免除されている間は年金保険料ゼロ。ただし将来もらえる年金は満額より少なくなる。
少なくなるが、ゼロよりマシだ。
「稼げるようになったら、追納します」
自分で言って、少し驚いた。
「稼げるようになったら」。
三ヶ月前の俺なら、この言葉は出なかった。
最後、住民税。
五番窓口。番号札。百十一番。もう三回目だ。慣れた。
住民税は、前年の所得がゼロなら非課税だった。今年は課税されない。
だが来年は違う。今年Uberと送迎で稼いだ分に、来年住民税がかかる。
「来年の六月頃に通知が届きます」
六月。覚えた。メモした。
市役所を出た。
三時間かかった。
三つのクエストをクリアするのに三時間。窓口を三つ回って、番号札を三枚取って、書類を五枚書いて、同じ説明を三回した。
疲れた。Uberで五時間走るより疲れた。
だがクリアした。
国民健康保険:加入完了。保険証が届く。月額約千五百円。
国民年金:全額免除申請済。当面の負担ゼロ。
住民税:今年は非課税。来年から発生。
後藤さんにLINEした。LINEならできる。
「三つとも終わりました」
「お疲れ様。よく頑張ったね」
後藤さんはいつもこう言う。大げさではなく、ちょうどいい温度で。
帰り道に考えていた。
二十年間、この手続きを全部、家族がやってくれていたのだ。
保険証を持っていたのは、誰かが手続きをしてくれたからだ。年金は——払われていなかったが、払うべきものだったことすら俺は知らなかった。
税金。保険。年金。
大人が当たり前にやっていることを、俺は四十歳にして初めてやった。
恥ずかしいか。
恥ずかしい。
恥ずかしいが、やった。やったことは消えない。
経験値が入った。
「行政手続き」のスキルが1になった。最大値がいくつかは知らない。だが0から1になった。
0から1が、一番大きい。
残金:669,379円
(内訳:証券口座12万8,000円 + 銀行54万1,379円)
※収入:Uber Eats(継続) +80,000円
※収入:求職者支援給付金 +100,000円
※食費(自炊、肉と野菜あり):約16,000円
※国民健康保険(遡り3ヶ月+当月):約6,000円
※国民年金:免除申請中(0円)
※ガソリン代:約8,000円
※光熱費:約18,000円
※通信費:約11,500円
※NISA積立開始前(15話で開始予定)




