第11話 おまかせ
鏡を見ている時間が増えた。
リングフィットの後、シャワーを浴びて、風呂場の鏡を見る。腹が少し凹んだ。顎のラインが出てきた。
だが顔の上半分がひどい。
——というか、全部がひどい。
鏡の中の男だけでなく、鏡の外もひどい。
部屋を見渡した。
ゴミ部屋だ。
二十年分のゴミが、この六畳に堆積している。ペットボトル。カップ麺の容器。Amazonのダンボール。ゲームのパッケージ。攻略本。古いPC雑誌。電源コードの絡まり。ガチャガチャの景品。壊れたコントローラー。
床が見えない。床が見えなくなったのは十年くらい前からだ。ゴミの上を踏んで移動するのが日常になっていた。PCデスクの周りだけは椅子が回転できる程度に空けてあるが、それ以外は地層だ。下のほうには何があるか分からない。
母さんは俺の部屋には入らなかった。入れなかったのか、入りたくなかったのか。食事のトレイをドアの前に置いて、空になったトレイを回収する。洗濯物はドアの外に出す。母さんが洗って、ドアの前に置く。俺がドアを開けて取り込む。
顔を合わせない仕組みが、二十年かけて完成していた。
洗濯は、家族がいなくなってから一週間、やらなかった。
やらなかったのではなく、やるべきだということに気づかなかった。服が臭くなって初めて気づいた。
洗濯機は脱衣所にあった。持っていかれなかった。重いからだろう。
使い方が分からなかった。
洗濯機を検索した。型番で検索した。説明書のPDFが出てきた。洗剤を入れて、服を入れて、ボタンを押す。
押した。回った。
一時間後、びしょびしょの服の塊が出てきた。干すということを知らなかった。いや、知っていたが、干す場所が分からなかった。物干し竿は庭にあった。
二十年ぶりに庭に出た。
雑草が腰の高さまで生えていた。物干し竿は錆びていたが使えた。
干した。風に揺れる自分のTシャツを見て、奇妙な気持ちになった。これまで母さんがやっていたことを、俺がやっている。
洗濯は覚えた。週二回。これはルーティンに入った。
だが部屋のゴミは手をつけていなかった。
——訓練に通い始めた頃、おばちゃんに言われた。
「時田さん、なんか……カビっぽい匂いしない?」
小声で言ってくれた。周りには聞こえなかったと思う。
家に帰って、自分のTシャツの匂いを嗅いだ。
分からなかった。自分の匂いは自分では分からない。
だが他人が言うなら、臭いのだ。
原因は分かっている。洗濯はしている。だが洗った服を、ゴミ部屋のゴミの上に置いている。ゴミが臭いから、洗った服にも匂いが移る。
部屋を片付けなければいけない。
三日かかった。
ゴミ袋、四十五リットルを十八袋。
十八袋を庭に積んだ。庭が袋で埋まった。雑草とゴミ袋。
ゴミの出し方を調べた。市のホームページ。可燃ごみは火曜と金曜。不燃ごみは第二水曜。
四回のゴミの日で全部出した。
床が見えた。
十年ぶりに床が見えた。
フローリングだ。埃がすごい。掃除機は母さんが持っていった。百均で箒とちりとりを買った。
掃いた。拭いた。
部屋が広い。六畳がこんなに広かったのか。
窓を開けた。風が通った。ゴミの匂いではない風が。
翌週、訓練校でおばちゃんに聞いた。「まだ匂いますか?」
「あら、今日は大丈夫よ。いい匂いする。洗剤の匂いね」
——洗剤の匂い。
俺から洗剤の匂いがしている。
ゲームの実績解除の効果音が脳内で鳴った。
ともかく——鏡の話だった。
体は変わりかけている。部屋は片付いた。洗濯もできる。
だが顔の上半分がひどい。
髪だ。
いつ切ったか覚えていない。最後に切ったのは——二十歳くらいか。母さんに「長くなったね」と言われて、近所の床屋に行った記憶がある。それ以来、切っていない。
二十年間。
二十年間切っていない髪は、途中で伸びるのが遅くなった気がする。肩まであった時期もあったが、今は中途半端な長さで、あちこち跳ねている。生え際が後退して額が広い。全体的に脂っぽく、風呂で洗ってもぺたんとしている。
体を直しても、頭がこれでは意味がない。
切らなければ。
——だが、どこで。
「美容室」で検索した。出てきた画像は、おしゃれな空間にキラキラした鏡と、若い美容師が笑っている写真だ。
無理だ。この空間に入る勇気がない。
「床屋」で検索した。こちらは少しマシだが、おじいさんの行く場所という印象がある。
「千円カット」で検索した。
あった。
QBハウス。カット千二百円。予約不要。シャンプーなし。十分で終わる。
十分。
十分なら耐えられるかもしれない。
駅前にあった。訓練校の帰りに寄れる。
——三日間、店の前を通り過ぎた。
通り過ぎるだけで精一杯だった。中に人がいる。椅子に座っている人がいる。鏡の前で髪を切られている人がいる。
俺もあの椅子に座って、知らない人に頭を触られるのだ。
四日目に入った。
空いていた。待ちゼロ。すぐに椅子に通された。
椅子に座った。ケープをかけられた。鏡に映る自分と目が合った。
四十歳。脂っぽい長髪。広い額。青白い肌に少し血色が戻りかけている。
「どうされますか?」
店員が聞いた。四十代くらいの男性だ。
どうされますか。
どうしてほしいか。
分からない。
「短くしてください」では短すぎるかもしれない。「整えてください」では何を整えるのか分からない。「こんな感じで」と写真を見せる方法があるらしいが、写真を探す余裕がない。
ゲームのキャラクリエイトなら、スライダーを動かせば髪型が変わる。「ショート」「ミディアム」「ロング」から選ぶ。
リアルにはスライダーがない。
「……おまかせで」
言った。
人生で初めて「おまかせ」を使った。
自分で判断できない時に、プロに丸投げする。これも一つのスキルだ。できないことを「できない」と認めて、できる人に任せる。
「おまかせ」は、弱さではない。できないことは、できる人に任せる。コンビニで学んだことだ。
バリカンが唸った。
首筋に風が当たった。
十分後。
「はい、こんな感じで」
鏡を見た。
——誰だ。
短い。すっきりしている。額は広いが、短髪だと逆に潔く見える。
首がある。首が見えている。今まで髪に隠れていた首が露出している。
こんな顔だったか。
四十歳の顔だ。若くはない。だがぶよぶよではない。リングフィットで顎のラインが出ている。短髪にしたら、そのラインが見える。
千二百円。
千二百円で顔が変わった。
——次は歯だ。
虫歯があるのは知っている。何本かは分からない。右奥の歯が二年前からズキズキしていて、放置していた。
保険証が届いたので、歯医者に行ける。
歯医者は怖い。だが市役所に三時間座れた男だ。
予約した。電話で。声が震えたが、相手は慣れたものだった。「お名前と、いつ頃から気になっていますか?」「二年前……いや、もっと前かも……」
歯医者に行った。
レントゲンを撮られた。
結果。
虫歯八本。
「八本」と先生が言った時、看護師さんの眉が少し動いた。
「最後に歯医者に来たのはいつですか」
「……二十年くらい前です」
先生が眼鏡の奥の目を閉じて、開けた。
「全部治しましょう。時間はかかりますが、治ります」
治る。
治るのか。二十年放置した歯が。
治療が始まった。週一回。一回三十分。保険適用で一回約二千五百円。
痛い。めちゃくちゃ痛い。
だがリングフィットの筋肉痛より痛くない。たぶん。いや、同じくらい痛い。
四回の通院で、右奥の歯が治った。被せ物が入った。物が噛める。
物が噛めるというのは、こんなに快適なことだったのか。
鶏むね肉を右側で噛めた。二年ぶりだ。
——最後に服だ。
今持っている服は、二十年前の服だ。正確に言うと、二十年前に着ていた服の生き残りだ。ヨレたTシャツ。伸びたジャージ。穴の空いた靴下。ひび割れたクロックス。
これで外を歩いている。これでUberの配達をしている。
後藤さんに言われた。
「時田さん、服だけはちゃんとしたほうがいいよ。面接の時もだけど、普段もね。人は見た目で判断するから」
知っている。ゲームでもアバターの装備で第一印象が変わる。初期装備のまま高レベルダンジョンに行ったら、パーティに入れてもらえない。
だが何を買えばいいか分からない。
ファッションの知識がゼロだ。ゼロ以下かもしれない。二十年前の記憶にあるのは大学生の頃に着ていたパーカーとデニムだが、四十歳が着るものではない気がする。
ネットで「四十代 男性 服 分からない」と検索した。
出てきたアドバイスが一つ。
「ユニクロに行け。マネキンが着ている通りに買え」
マネキン買い。
マネキンはプロがコーディネートしている。つまりあれを丸ごとコピーすれば、少なくとも変ではない格好になる。
おまかせだ。今度はマネキンにおまかせする。
ユニクロに行った。
店に入った瞬間、広さに目眩がした。服が無限にある。
だがマネキンを探せばいい。
入り口の近くにマネキンが立っていた。
黒いスリムパンツ。白いオックスフォードシャツ。紺のカーディガン。
これだ。
同じ棚に行って、同じ物を取った。サイズが分からない。試着室に行った。
試着室で服を着替えるのが、どれだけ緊張する行為か。服屋の店員が「何着お持ちですか?」と聞いてくるのが、どれだけ怖いか。
だが服を着替えた。
鏡を見た。
——違う。
違う人間が立っている。
短髪。黒いパンツ。白いシャツ。紺のカーディガン。
リングフィットで少し引き締まった体が、ちゃんとした服を着ると、もう少しちゃんとして見える。
四十歳だ。若くはない。ハンサムでもない。
だが「普通」だ。
普通の四十歳の男に見える。
二ヶ月前、コンビニのガラスに映っていた男は、普通ではなかった。ぶよぶよで、脂っぽくて、ヨレたTシャツを着た、二十年間外に出なかった男だった。
今、ユニクロの試着室にいる男は、普通だ。
普通であることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
パンツ、シャツ、カーディガン。靴下二足。合計八千九百七十円。
靴も必要だ。クロックスはもう限界だ。
隣の靴屋で黒いスニーカーを買った。四千九百円。
クロックスを捨てた。
十年間の相棒だった。ひびの入った左足。ありがとう。もう要らない。
帰り道、ショーウィンドウのガラスに映る自分を見た。
短髪。白シャツ。紺のカーディガン。黒いパンツ。黒いスニーカー。
知らない男だ。
コンビニのガラスの男でも、洗面台の暗い自撮りの男でもない。
新しい男がいる。
まだ腹は出ている。まだ額は広い。まだ肌は白い。
だが——悪くない。
悪くない、と初めて思った。
自分の見た目を「悪くない」と思えたのは、大学以来だ。
千二百円の散髪。二千五百円の歯医者。八千九百七十円の服。四千九百円の靴。
合計一万七千五百七十円。
キャラクターの外見を変えるのに、一万七千五百七十円。
安い。
安すぎる。
もっと早くやるべきだった。
だが「もっと早く」にはできなかった。コンビニのガラスに映る自分を見て、このままではまずいと思って、リングフィットを始めて、体が変わり始めて、初めて「変えたい」と思えた。
順番があったのだ。
体が先。外見が後。
RPGの装備にはレベル制限がある。レベル5のキャラがレベル30の鎧を手に入れても、装備できない。「レベルが足りません」と弾かれる。
二ヶ月前の俺がユニクロで同じ服を買っても、たぶん似合わなかった。ぶよぶよの体に白シャツを着ても、ぶよぶよの白シャツになるだけだ。
リングフィットでレベルを上げたから、装備できた。
やっとスタートラインに立った気がする。
何のスタートラインかは——まだ考えないことにする。
残金:803,809円
(内訳:証券口座12万8,000円 + 銀行67万5,809円)
※収入:Uber Eats +85,000円
※収入:求職者支援給付金 +100,000円
※散髪:−1,200円
※歯医者(初回):−2,500円
※ユニクロ(マネキン買い):−8,970円
※靴:−4,900円
※食費:約16,000円
※ガソリン代:約8,000円
※光熱費:約18,000円
※通信費:約11,500円
※国民健康保険:約1,500円
※リングフィット:レベル89。腹囲−6cm




