第6話 タイミー
求職者支援訓練の給付金が振り込まれるのは、訓練開始後の翌月だと言われた。
訓練の申し込みから開始まで二週間。開始から給付まで一ヶ月。
合計一ヶ月半。
一ヶ月半後に十万円が入る。
今は九月の頭だ。十月半ばまで、収入はゼロ。
残金三十七万。月の支出が食費と光熱費で約三万。二ヶ月で六万。
死にはしない。
死にはしないが、三十七万が三十一万になる。株の十二万八千円を足しても四十四万。どこかで入りを作らないと、ずっと減り続ける。
——即金が欲しい。
後藤さんに聞いた。ハローワークに通い始めて三日目のことだ。
「今すぐ現金が入る仕事はありますか」
「日払いのバイトならあるけど、体力は大丈夫?」
大丈夫ではない。だが大丈夫かどうかは、やってみないと分からない。
「タイミーっていうアプリがあるんですけど」
後藤さんが教えてくれた。アプリで登録して、その日空いている仕事に入れる。面接なし。日払い。倉庫作業、ピッキング、仕分け、イベント設営。
面接なし。
この二文字が大きい。面接があると、「職歴は?」と聞かれる。「ありません」と答える。空気が凍る。その空気に耐える社会性HPが、今の俺にはない。
面接なしで働ける。
スマホにアプリを入れた。復旧したばかりのスマホだ。
近所の倉庫のピッキング作業があった。日給八千円。朝九時から夕方五時。
応募した。
即確定した。人手が足りないらしい。
翌朝、六時に起きた。
六時。
ゲーマーの六時は「まだ寝ていない時間」だ。深夜レイドが終わって、風呂に入って、布団に入る時間が六時だった。
今日はその六時に起きる。
起きた。
頭がぼんやりしている。体が重い。朝という時間帯に活動したことが、ここ二十年ほとんどない。
米を炊いた。鍋で。もやしを茹でた。ゆで卵を作った。
弁当がない。弁当箱がない。ジップロックに詰めた。おにぎりにする技術がないので、ご飯をそのまま袋に入れた。
見た目は最悪だ。だが腹には入る。
車で行こうかと思った。ワゴンR。だがガソリンがほぼ空で、ガソリン代が出せるか微妙だ。
自転車もない。
歩いた。
倉庫まで徒歩四十分。スマホのマップを見ながら歩いた。
二十分で足が痛くなった。三十分で汗だくになった。四十分で着いた時には、膝が笑っていた。
倉庫は大きかった。天井が高い。棚が並んでいる。棚にダンボール箱が積んである。
指示された仕事はこうだ。
端末に表示される商品名と棚番号を見る。その棚に行く。商品を取る。カゴに入れる。次の商品名が表示される。繰り返す。
——これ、ゲームだ。
クエストの素材集めと同じだ。マップ上にマーカーが表示されて、その場所に行って、アイテムを拾う。次のマーカーが出る。繰り返す。
端末がクエストログで、棚がフィールドで、商品がドロップアイテムだ。
分かった瞬間に、手が動き始めた。
棚番号のパターンを覚えた。A-1からA-30が左の壁沿い。B列が中央。C列が右。端から端まで歩くと無駄が出る。同じエリアの商品をまとめて取れば、移動距離が減る。
ゲームの効率周回と同じ考え方だ。
最初の一時間で二十三件。隣のレーンの若い男が同じ時間で三十件やっている。負けている。
だが一時間後には二十八件になった。パターンが見えてきた。
昼休み、ジップロックの飯を食った。
周りの人間は弁当箱やコンビニ弁当を食っている。ジップロックに白飯を入れている男は俺だけだ。
恥ずかしいかと聞かれたら、恥ずかしい。だが腹は膨れる。
午後。
脚が動かなくなり始めた。
朝から立ちっぱなしだ。二十年間、椅子に座っていた人間が、八時間立って歩き続けている。
膝が痛い。腰が痛い。足の裏が痛い。クロックスの底が薄すぎる。コンクリートの床の冷たさが直接骨に来る。
三時を過ぎた頃、速度が落ちた。一時間で十五件。朝の半分だ。
五時。終わった。
着替える場所でしゃがみ込んだ。立ち上がれなかった。三分かかった。
帰り道、四十分歩いた。行きより長く感じた。途中のブロック塀に三回寄りかかった。
家に着いた。
玄関で靴を脱いで、廊下に倒れた。
動けない。全身が痛い。
天井の染みを見ている。
——八千円。
今日一日の労働で、八千円。
人生で初めて、自分の体を動かして金を稼いだ。
八千円。
株で一日五千円勝った時は「簡単だ」と思った。
八千円は簡単ではなかった。八時間立って、歩いて、しゃがんで、持って、置いて。全身で稼いだ八千円だ。
株の五千円と、労働の八千円は、同じ金だ。
だが重さが違う。
二日目も行った。
脚が筋肉痛で階段が降りられなかった。手すりにしがみついて、一段ずつ降りた。
倉庫まで歩いた。昨日より遅い。五十分かかった。
だが手順は覚えている。朝から二十八件ペースで回れた。
午後、やはり落ちた。腰が限界だ。
三日目。
朝、目覚ましが鳴った。
体が起きなかった。
目は覚めた。意識はある。だが体が動かない。
腰が固まっている。背中が板になっている。首が回らない。
三十分かけて起き上がった。
トイレに行くだけで膝が鳴った。
行った。
三日目も行った。
行ったが、午後二時に限界が来た。
棚の前でしゃがんだら、立ち上がれなくなった。膝と腰が同時に攣った。
社員の人が来た。「大丈夫ですか」
大丈夫ではない。
早退した。日給は時間割りで五千三百円。
四日目。
起き上がれなかった。
本当に起き上がれなかった。昼まで布団の中にいた。
腰が死んでいる。二十年間椅子に座っていた腰は、三日間の肉体労働に耐えられなかった。
——だが。
三日間で二万一千三百円稼いだ。
二万一千三百円。
人生で初めて稼いだ金だ。
タイミーのアプリに「受取可能」の表示が出ている。銀行に振り込まれる。
手数料を引いて、二万九百円。
入った。
口座に、自分で稼いだ金が入った。
画面に表示された残高を、しばらく見ていた。
株で十五万増えた時より、嬉しかった。
株の十五万は、椅子に座ってクリックしただけだ。そして消えた。
この二万九百円は、足が痛くて、腰が壊れて、ジップロックの飯を食って、クロックスで倉庫のコンクリートを八時間歩いて稼いだ金だ。
消えない。消えるのは使った時だけだ。
嬉しい。
嬉しいが、体が壊れている。
四十歳の体で、肉体労働はもう無理だ。三日で壊れた。これを週五で続けたら一ヶ月以内に入院する。
体力をつけないといけない。
コンビニのガラスに映ったぶよぶよの体。それが三日の倉庫で壊れた体。
この体を何とかしないと、何をやっても続かない。
布団の中で、スマホを開いた。
「四十代 運動 自宅 ゲーム」
検索した。
リングフィットアドベンチャー。
Nintendo Switchのフィットネスゲーム。リングコンという器具を使って、ゲームをしながら筋トレと有酸素運動ができる。
ゲーム。
ゲームなら、できる。
メルカリで——メルカリは使ったことがないが——中古のSwitch本体とリングフィットのセットが出ていないか調べた。
あった。本体+ソフト+リングコンで一万五千円。
高い。
高いが、ジムの月会費より安い。そしてジムに通う社会性HPは、俺にはない。
家でできる。一人でできる。ゲームだからできる。
買った。
残金:375,559円
(内訳:証券口座12万8,000円 + 銀行24万7,559円)
※収入:タイミー3日分 +20,900円 ★人生初の労働収入★
※食費7日分(自炊中心):約3,500円
※交通費なし(徒歩)
※リングフィットアドベンチャー購入:−15,000円(配送待ち)




