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第5話 ハローワーク


 全財産三十七万の朝は、静かだった。

 目が覚めて、天井の染みを見て、しばらく動けなかった。

 三週間、ほとんど寝ていない。株が動いている間は画面を見ていた。株が止まっている夜中はチャートの復習をしていた。飯はコンビニのおにぎりとカップ麺を交互に食った。風呂は三日に一回。

 体が重い。

 重いのは疲労だけではない。元々重い。コンビニのガラスに映ったぶよぶよがまだここにいる。三週間で変わるわけがない。

 起き上がった。

 PCの電源を入れなかった。

 初めてだ。朝起きてPCの電源を入れなかったのは、二十年間で初めてかもしれない。

 入れたら、証券口座を見てしまう。十二万八千円を見てしまう。見たら、また「取り返そう」と思ってしまう。

 あの回路を、今日は起動させない。

 階段を降りた。台所に立った。

 昨日、コンビニで買った食パンがある。六枚切り。百四十八円。

 食パンをそのまま食った。焼かなかった。トースターがない。

 味がしない。焼いていない食パンは段ボールを食っているようなものだ。だが腹には入る。

 ——百四十八円で六食分。一食あたり約二十五円。

 コンビニのおにぎりは一個百六十円。

 食パン一枚は二十五円。

 六倍違う。

 三週間、俺は六倍の金を払って飯を食っていた。

 計算した。コンビニ飯の三週間で約三万一千円。食パンと同じ効率で食えていたら、五千円で済んでいた。差額二万六千円。

 二万六千円。あればスマホの料金が何ヶ月分も払えた。

 馬鹿だ。

 だが馬鹿だと気づけたなら、次は馬鹿をやらなければいい。

 スーパーに行った。

 コンビニより遠い。徒歩十五分。過去最長の遠征だ。

 途中で二回止まった。だが着いた。

 スーパーの中に入った。

 広い。明るい。人が多い。

 人が多い。

 コンビニは客が二、三人だ。スーパーは二十人はいる。視線がある。視線はないかもしれないが、ある気がする。

 心拍数が上がった。手が汗をかいている。

 ——だが。

 値段を見た瞬間に、恐怖が消えた。

 もやし。一袋二十九円。

 二十九円。

 卵。十個入り。百九十八円。一個あたり約二十円。

 鶏むね肉。百グラム五十八円。三百グラムで百七十四円。

 米。五キロ。千七百八十円。一合約七十円。一合で二食分。一食三十五円。

 パスタ。五百グラム。百四十八円。一食分百グラムで約三十円。

 全部買った。合計二千三百二十九円。

 これで一週間は持つ。

 コンビニなら一万円以上かかる量だ。

 四分の一以下。

 ——なぜ最初からこうしなかった。

 答えは簡単だ。料理ができないからだ。

 だが食パンを切って焼かずに食える人間は、もやしを茹でることもできるはずだ。

 帰った。台所に立った。

 鍋がない。

 そうだった。鍋は母さんが持っていった。

 引き出しを全部開けた。何かないか。

 あった。片手鍋が一つ。棚の奥に、埃をかぶって転がっていた。小さい。カップ麺にお湯を注ぐために使っていたやつかもしれない。

 これでいい。

 もやしを洗った。鍋に水を入れた。コンロの火をつけた。

 火がついた。ガスはまだ来ている。先日コンビニで払ったからだ。

 もやしを茹でた。

 三分。

 ざるがないので鍋の蓋で押さえて湯を切った。

 皿がない。鍋のまま食った。醤油がないか探した。冷蔵庫のあった場所の横の棚に、小さいボトルが一本残っていた。

 醤油をかけた。食った。

 ——うまい。

 うまいのかどうか分からない。だが温かい。コンビニのおにぎりより温かい。母さんの飯には遠いが、自分で作ったものを食うのは初めてだ。

 もやし一袋。二十九円。

 この達成感は二十九円の味ではない。

 卵を鍋に入れた。水を張って火にかけた。十分待った。ゆで卵だ。フライパンがないから、焼くことはできない。茹でるしかない。

 ゆで卵ともやしと食パン。

 これが今日の全食費。約七十四円。

 昨日までの一日千五百円が、七十四円になった。

 ——節約というスキルを習得した。経験値が入った。

 翌日、もう一つ遠くへ行った。

 ハローワーク。

 ネットで場所を調べた。バスで二十分。バス代は往復四百四十円。痛いが、必要な出費だ。

 バスに乗るのが怖かった。

 バスに乗ること自体が二十年ぶりだ。整理券を取るのか。ICカードは持っていない。現金で払えるのか。

 払えた。乗る時に整理券を取って、降りる時に料金箱に入れる。二百二十円。

 ハローワークは古いビルの三階にあった。

 入った瞬間、場違いだと思った。

 スーツを着た人がいる。ちゃんとした服を着た女性がいる。俺はよれたTシャツにクロックスだ。

 受付で名前を書いた。手が震えた。声が出なかった。

 「あの」

 声が裏返った。受付の女性が少し驚いた顔をした。

 「初めて……来ました」

 「求職者登録ですね。こちらにお掛けになってお待ちください」

 普通だった。普通に対応された。怒られなかった。笑われなかった。

 待っている間、壁に貼ってあるポスターを読んだ。

 「求職者支援訓練のご案内。訓練期間中、月額10万円の職業訓練受講給付金を受給できます」

 十万円。

 月に。

 十万円が毎月入ってくる。条件は、訓練に毎日通うこと。

 毎日通う。

 毎日外に出て、決まった場所に通う。それだけで十万円。

 ——バフだ。

 ゲームでいうバフだ。特定の条件を満たすと能力値にボーナスがかかる。「毎日通う」という条件を満たすと、月十万のバフがかかる。

 呼ばれた。

 窓口に座った。対面に男が座った。

 五十代くらい。眼鏡。少し太っている。名札に「後藤」と書いてある。

 「えーと、時田さん。今までのお仕事の経験を教えてください」

 「ありません」

 後藤さんの眼鏡の奥の目が、一瞬止まった。

 「え、アルバイトとかも」

 「ありません。二十年間、何もしていません」

 沈黙があった。

 後藤さんがペンを置いた。

 「二十年間」

 「はい」

 「何をされていたんですか」

 「ゲームです」

 もう一度、沈黙があった。

 後藤さんは眼鏡を外して拭いた。拭きながら言った。

 「何のゲームですか」

 予想していなかった質問だった。

 「Ultimaから始めて、FF11、WoW、FF14を……」

 「WoW。ギルドやってました?」

 「やってました。四十人レイドの」

 後藤さんが眼鏡をかけ直した。

 「私もやってました。二十五人レイドまでですけど」

 ——え。

 「ハローワークの職員がWoWやってたんですか」

 「過去形ですけどね。今は時間がない」

 後藤さんは少し笑った。

 「時田さん、職歴がないのは正直きついです。四十歳で職歴なしは、かなりきつい。でも、まず求職者支援訓練に申し込みましょう。月十万の給付金が出ます。通いながら、少しずつ体を慣らしていきましょう」

 「はい」

 「ゲームで四十人レイドの調整ができた人は、段取りの力はあるんです。問題は経験値がリアルに変換されていないだけで。ログインするサーバーを変えれば、同じ力が使えるかもしれません」

 ——このハローワーク職員は、俺の言語で話している。

 初めてだ。

 二十年間引きこもって、初めて、俺の言語が通じる人間に会った。

 帰りのバスで、窓の外を見ていた。

 街が流れていく。知らない街だ。二十年間、この街に住んでいたのに知らない。

 来週から、毎日ここに通う。

 毎日バスに乗って、毎日このビルに行って、毎日人と顔を合わせる。

 想像するだけで胃が痛い。

 だが月十万。

 十万あれば、食費と光熱費は払える。三十七万の減りが止まる。止まっている間に、次の手を考えられる。

 ——バフをかけに行く。

 毎日、バフをかけに行く。

 家に着いた。ポストを見た。今度はちゃんと見た。

 チラシが二枚。請求書はなかった。

 よし。先日全部払ったからだ。

 台所に行った。もやしを茹でた。卵をゆでた。米は——炊飯器がないので鍋で炊いた。ネットで「鍋 米 炊き方」と調べて、その通りにやった。

 少し焦げた。

 焦げたが、食えた。

 鍋で炊いた飯ともやしとゆで卵。

 一食約六十円。

 コンビニの十分の一以下だ。

 食った。

 うまくはない。だが腹が膨れた。

 これでいい。

 明日も炊く。明後日も炊く。

 毎日炊いて、毎日食って、毎日バスに乗って、毎日ハローワークに通う。

 経験値を貯める。

 レベル1のまま、経験値を貯める。

    残金:369,659円

    (内訳:証券口座12万8,000円 + 銀行24万1,659円)

    ※食費:コンビニ3日分4,500円 + スーパー買い出し2,329円 = 6,829円

    ※バス代:440円

    ※スマホ回線復旧済(滞納分は前話で支払い済)

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