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第4話 追証


 信用取引を始めてから、世界が変わった。

 同じ一パーセントの値動きで、利益が三倍になる。

 初日、化学メーカーの株を信用で百五十万円分買った。自己資金は八十五万だが、借りた金で百五十万動かせる。

 前場で二パーセント上がった。利益三万円。

 現物でやっていた時は、同じ値動きで一万円だった。

 三倍。同じ時間、同じ椅子に座って、三倍。

 ——なぜ最初からこれをやらなかったのか。

 翌日も勝った。+二万五千。

 翌々日も勝った。+一万八千。

 口座残高が九十二万を超えた。

 体温が上がっている気がした。実際には部屋が暑いだけかもしれない。八月の終わりだ。エアコンは効いている。まだ電気は来ている。

 ——ここで、やるべきだったことがある。

 止めるべきだった。

 九十二万。元が七十万だから、二十二万の利益。十分だ。ここで現物取引に戻して、利益の二十二万だけで小さく回せばよかった。

 そうしなかった。

 二十二万勝っている男の頭には、「もっと」しかない。

 ストラテジーゲームなら、資源が増えたら次の施設を建てる。施設が建ったらもっと資源が増える。増えた資源でさらに施設を建てる。拡大再生産。止まったら負ける。

 株は施設ではない。

 株は生き物だ。

 そのことに気づいたのは、製薬株で決算を跨いだ時だった。

 好決算が予想されていた。アナリストの予想を上回るだろうと、掲示板でもTwitterでも言われていた。

 信用で二百万円分買った。自己資金を超えている。借りた金だ。

 決算発表。

 結果は——良かった。

 予想を上回った。売上も利益も過去最高だった。

 株価は下がった。

 下がった。

 決算が良いのに、下がった。

 意味が分からなかった。

 ゲームなら、ボスのHPを削れば削るほどボスは弱くなる。良い結果は良い方向に作用する。当たり前だ。

 当たり前じゃなかった。

 「材料出尽くし」というらしい。

 良い決算が出ることは、市場が事前に織り込んでいた。つまり、良い決算を期待して既に株を買っていた人間が大勢いた。決算が実際に出た瞬間、その人間たちは「はい、期待通りでしたね」と言って売った。

 買う理由がなくなったから売った。

 良い結果で売られる。

 これはゲームのロジックにはない。

 −十八万。

 一日で十八万。

 画面が赤い。含み損の表示が赤く光っている。ゲームならHPバーが赤く点滅している状態だ。

 損切りしろ。

 頭の中で声がした。二週間前の冷静な俺の声だ。「城が落ちたら撤退する」と決めていた俺の声だ。

 損切りラインはマイナス五パーセントに設定していた。もう超えている。とっくに超えている。

 ——だが。

 切れなかった。

 十八万を確定させたくなかった。

 まだ含み損だ。売らなければ、損は確定しない。持っていれば、戻るかもしれない。明日は上がるかもしれない。決算は良かったのだから。

 「戻るはず」。

 ゲーマーの俺が知っている。これは「沼」だ。クリアできないボスに何度も挑んで、レベルを上げずに同じ戦法で突っ込み続ける。死ぬ。また突っ込む。死ぬ。装備を変えろ。戦法を変えろ。それが分かっているのに、同じことを繰り返す。

 分かっている。分かっているのに切れない。

 ナンピンした。

 下がった株を、さらに買い増した。平均取得単価を下げるためだ。ここから戻れば、損が小さくなる。

 戻らなかった。

 翌日もう二パーセント下がった。含み損が二十六万になった。

 翌々日さらに下がった。三十二万。

 ——スマホが死んだ。

 朝、目が覚めて、スマホを見たら圏外だった。

 Wi-Fiには繋がる。家の固定回線はまだ生きている。だがモバイル回線が死んでいる。

 あの通知だ。「お支払いの確認が取れておりません」。あれを無視した。後で見ると言った。後で見なかった。

 止まった。

 電話ができない。外でネットが使えない。

 だが今はそれどころではない。含み損が三十二万ある。

 PCは動く。家のWi-Fiは動く。取引はできる。

 取り返す。

 取り返さなければ。

 冷静さが消えていた。

 損切りラインを決めてから入るという鉄則が消えていた。ストラテジー脳が消えていた。残っているのは「取り返す」だけだ。

 仕手株に手を出した。

 出来高が急増している小型株だ。掲示板で「仕手筋が入っている」と噂されている銘柄。値動きが激しい。一日で十パーセント動くこともある。

 信用で全力買いした。

 一日目。+八万。

 戻ってきた。まだいける。

 売らなかった。もっと上がると思った。

 二日目。ストップ安。

 ストップ安。値幅制限いっぱいまで下がって、売りたくても売れない状態。

 売り注文を出した。約定しない。買い手がいない。

 画面の前で、動けなかった。

 三日目の朝、少し戻して約定した。

 −二十五万。

 二日で。

 二日で、仕手株だけで二十五万消えた。

 それだけじゃない。製薬株の含み損もまだある。

 合計の含み損益を見た。

 赤い。

 赤い数字が並んでいる。

 ——追証のメールが来た。

 追加保証金。信用取引の含み損が大きくなりすぎて、追加で金を入れるか、ポジションを決済しろという通知。

 期限は翌営業日まで。

 追加の金はない。

 銀行に二十七万ある。だがこれを入れたら、生活費がゼロになる。

 飯が食えない。

 電気が止まったらPCも動かない。

 ——ここで、ようやく、目が覚めた。

 俺は何をしている。

 二十年間、ゲームの中で「損切りは早くしろ」と他人に説教していた男が、リアルで損切りできずにナンピンして仕手株に手を出して追証を食らっている。

 ゲームなら笑う。「そいつ下手すぎだろ」と笑う。

 そいつは俺だ。

 全ポジションを成行で決済した。

 製薬株。損切り。

 仕手株の残り。損切り。

 他の小さいポジション。全部切った。

 約定の通知が並んだ。全部マイナスだ。

 証券口座の残高を見た。

 百二万円。

 いや、違う。これは信用取引の精算前だ。

 精算後の数字が出た。

 十二万八千円。

 七十万が、十二万八千円になった。

 五十七万溶けた。

 利益が出ていた時期を含めると、最高値の九十二万から見れば七十九万の下落だ。

 だが実損は五十七万だ。入れた七十万のうち、五十七万が消えた。

 椅子の背もたれに体を預けた。

 天井の染みが見える。十五年前の雨漏り。

 ——何をやっていたんだ、俺は。

 姉貴が介護の仕事で貯めた百万円のうち、五十七万を、三週間で溶かした。

 椅子に座って、画面を見ているだけで。

 ゲームなら、通貨が消えても時間をかければ取り戻せる。リアルは違う。消えた五十七万は、帰ってこない。

 学んだことはある。

 一、地合いが良い時に勝ったのは、実力ではない。

 二、信用取引は、初心者が触ってはいけない。

 三、損切りラインは、決めるだけでは意味がない。機械的に執行できなければ意味がない。

 四、「取り返す」と思った瞬間が、一番危ない。

 五、ゲームと株は、同じではなかった。相手もプレイヤーだ。しかもプロだ。

 五つ。五つの教訓を得た。

 五つの教訓の代金が五十七万円。

 高い授業料だ。

 だが——死んではいない。

 銀行に二十七万。証券口座に十二万八千。合わせて約四十万。

 四十万。

 百万が四十万になった。

 ポストを見に行った。初めて。

 膨らんでいた。パンパンだった。

 開けた。

 チラシが八割。残りの二割が——封筒だった。

 電気。ガス。水道。固定回線。NHK。市役所。

 全部、請求書だった。

 開けた。

 電気代。先月分。八千四百円。支払期限を十日過ぎている。

 ガス代。三千二百円。同じく過ぎている。

 水道代。二ヶ月分。四千八百円。こちらはまだ期限内。

 固定回線。五千五百円。支払期限を五日過ぎている。

 ——合計、約二万二千円。

 払わないと止まる。電気が止まったらPCが動かない。PCが動かなかったら何もできない。

 スマホはもう止まっている。

 次に固定回線が止まったら、ネットが完全に消える。

 コンビニに走った。走れなかったので早歩きした。

 ATMで金を下ろした。封筒を全部持っていった。

 コンビニ払いができることは、封筒の裏に書いてあった。

 全部払った。

 レジに封筒を何枚も出す四十歳の男を、店員が少し見ていた。気にしている場合ではない。

 全部払った。

 スマホの回線復旧も申し込まなければいけない。だがスマホの回線が死んでいるので、電話で申し込めない。

 家に帰って、PCから申し込んだ。復旧まで数日かかるらしい。

 ——座った。

 PCの前に座った。

 株の口座に十二万八千円が映っている。

 三週間前は七十万だった。

 スマホは止まっている。

 ポストには督促が入っていた。

 食費は毎日千五百円消えている。

 全財産は四十万を切っている。

 ——これが、俺の現在地だ。

 ニューゲームで始めて、チュートリアルで全滅した。

 だが、まだ詰んでない。

 まだ詰んでない、はずだ。

 四十万ある。家がある。PCがある。車がある。

 一手は、まだ指せる。

 だが次の一手を間違えたら、今度こそ詰む。

 次は——外に出るしかない。

 PCの前に座っているだけでは、金は増えなかった。減った。

 外に出て、体を動かして、金を稼ぐ。

 それしか残っていない。

 コンビニのガラスに映っていた、ぶよぶよの四十歳が、外に出て働く。

 想像するだけで吐きそうだ。

 だが吐いても、やるしかない。

    残金:376,928円

    (内訳:証券口座12万8,000円 + 銀行24万8,928円)

    ※株損失 −57万2,000円

    ※食費21日分 約31,500円消費

    ※滞納公共料金支払い 約22,000円

    ※スマホ回線停止中(復旧申請済)

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