第3話 含み益
最初の注文を出す時、指が震えた。
マウスのクリックを何千万回やってきたか分からないが、今日のクリックだけは違う。このクリックで、リアルの金が動く。
ゲーム内通貨ではない。俺の全財産の七割が動く。
銘柄は三日間選んだ。
条件はストラテジーゲームの資源管理と同じ考え方で決めた。
一、出来高が多いこと。流動性がないと売りたい時に売れない。MMOで過疎鯖のアイテムが売れないのと同じだ。
二、ボラティリティがそこそこあること。値動きがなければ差額が取れない。だが動きすぎると初心者は死ぬ。
三、直近のチャートに分かりやすいパターンが出ていること。
三つ目の条件で、一つの銘柄が引っかかった。
製薬会社だ。新薬の承認申請を出していて、結果が近い。チャートを見ると、五日移動平均線が二十五日移動平均線を下から突き抜けかけている。
ゴールデンクロス。
テクニカル分析の教科書に最初に出てくるやつだ。上昇トレンドの始まりを示すとされる。
「とされる」というのがポイントだが、俺は教科書を読んだばかりの初心者だ。教科書に書いてあることを信じる。
買った。
五百株。取得単価千二百円。約六十万円。
残りの十万は予備だ。
買った瞬間、画面の数字が変わった。
評価損益:+200円。
二百円。コンビニのおにぎり一個分。
だが増えた。クリック一回で増えた。
心臓が跳ねた。
三十分後、+1,500円。
一時間後、+4,200円。
前場が終わる頃、+8,000円。
八千円。
今日一日、コンビニに三回行く代わりに、椅子に座っていただけで八千円。
後場で少し下がった。+5,500円。
怖くなって売った。
約定。利益確定。+5,500円。
手数料と税金を引いて、手取り約四千四百円。
四千四百円。
コンビニ飯三日分だ。
——椅子に座って、画面を見ていただけで。
興奮した。手が震えている。さっきとは違う震え方だ。恐怖ではなく、快感の震えだ。
ゲームでレアドロップを拾った時と同じアドレナリンが出ている。同じ脳の回路が光っている。
次の日も買った。
別の銘柄。建設株だ。政府の補正予算のニュースが出ていた。「公共事業関連が買われる」と株の掲示板に書いてあった。
買った。上がった。+12,000円で売った。
次の日も買った。+6,000円。
次の日は下がった。−3,000円で損切りした。
損切りできた。設定したラインを守れた。
ストラテジーゲームで「この城が落ちたら撤退する」と決めておくのと同じだ。決めたラインを守る。感情で動かない。
——俺、これ向いてるんじゃないか。
一週間で+三万円。
二週間で+十五万円。
口座残高:八十五万円。入金時の七十万から十五万増えた。
銀行の残高は食費で削れているが、株が増えているから全体では元の百万を超えている。
超えている。
手切れ金の百万を超えた。
——俺、天才なんじゃないか。
画面の前で、一人で笑った。
ガラスに映ったぶよぶよの中年が笑っている。だが今は気にならない。金が増えている。金が増えていれば、何でもいい。
スマホに通知が来た。
キャリアからだ。「お支払いの確認が取れておりません。○月○日までにお支払いがない場合、回線を停止いたします」。
読んだ。
意味は分かったが、頭に入らなかった。
チャートのほうが気になる。明日の寄り付きで買う銘柄を選んでいる最中だ。後で見る。
後で見る。
——二十年間、「後で見る」で何もしなかった男が、また「後で見る」と言っている。
だが今は株のほうが大事だ。
十五万勝っている。
もっと勝てる。もっと大きく張れる。今の資金量だと一日に取れる額が小さすぎる。もっと大きなロットで入れば、同じ値動きでも利益が倍になる。
信用取引というものがある。
証券会社から金を借りて、手持ちの三倍まで取引ができる。
三倍。
八十五万の三倍は二百五十五万。二百五十五万分の株を動かせる。
ゲームでいえば、レベル十のキャラにレベル三十の装備を貸してくれるようなものだ。
強い。強いに決まっている。
——だが、借りた装備は返さなければならない。
そして、装備がレベル三十でも、中身はレベル十のままだ。
その理屈を、俺は分かっている。
分かっているはずなのに、信用取引の申し込みボタンを見ている。
十五万勝った俺の指が、そのボタンの上にある。
押した。
残金:1,121,108円
(内訳:証券口座85万 + 銀行27万1,108円)
※食費14日分 約21,940円消費
※スマホ料金未払い通知あり(未対応)




