第2話 初期設定
二日目の朝、腹が減って目が覚めた。
当たり前のことだが、二十年ぶりの体験だった。
二十年間、朝は目覚ましではなく尿意で起きていた。起きたら部屋のドアの前にトレイが置いてある。飯と味噌汁。温かい。蓋にラップがかかっている。
今日は何もない。
ドアの前に、何もない。
廊下に出た。階段を降りた。台所に行った。
台所は空だった。
コンロはある。水道は出る。だが鍋がない。皿がない。箸がない。全部持っていかれた。
いや——一つだけあった。シンクの隅に、カップ麺の空容器が一つ。俺がいつか食った残骸だ。何年前かは分からない。
冷蔵庫がないのは昨日確認した。冷蔵庫がなくても食える物がないか探した。戸棚を開けた。
塩があった。
塩で飯は作れない。飯がないからだ。
コンビニに行くしかない。
昨日と同じ道を歩いた。今日は九分で着いた。三分縮まった。体が覚え始めている。
おにぎり二個と菓子パン一個と麦茶のペットボトル。合計五百二十円。
これが朝飯だ。
昼もコンビニだった。弁当にした。四百九十八円。
夜もコンビニだった。カップ麺とサラダ。三百九十八円。
一日の食費、千四百十六円。
三日目。千三百八十円。
四日目。千五百二十円。
五日目。千二百九十円。
五日間の食費合計、六千円と少し。
これを三十日続けたら、食費だけで約四万円だ。
——計算できた。二十年間、生活費を考えたことがなかったが、五日間コンビニに通ったら計算できるようになった。
毎日の数字を見ていれば、誰でも計算できる。ゲームのリソース管理と同じだ。入ってくる金がゼロで、出ていく金が毎日千五百円。
入りがゼロ。
これが問題だ。
百万を食費だけで割ると、約六百六十日。一年十ヶ月。
だが食費だけで生きるわけではない。電気もガスも水道も通信費もかかる。いくらかは知らないが、かかる。
実際に持つのは、たぶん一年もない。
その間に、入りを作らなければ死ぬ。
死ぬ、というのは比喩ではない。金がなくなったら飯が食えない。飯が食えなければ死ぬ。ゲームオーバーだ。コンティニューはない。
——PCの前に座った。
俺の手持ちリソースを整理する。
金:百万弱。減る一方。
場所:実家。家賃ゼロ。
体:コンビニ往復が限界。外で八時間働くのは無理。
PC:ある。ネットもある。
車:ある。運転は怖い。
体が動かない。外で働けない。
だが、PCはある。
PCの前に座ってできる仕事は何だ。
検索した。「自宅 PC 稼ぐ 方法」。
出てきたのは大量の怪しいサイトだった。
「一日五分で月収百万」「コピペだけで不労所得」「知識ゼロから月五十万」。
嘘だ。
二十年間ネットにいた人間を舐めるな。これらは全部、情報商材の入り口だ。クリックした先に高額な教材が待っている。ソシャゲのガチャ演出と同じ構造だ。射幸心を煽って金を出させる。
こういうものを見分ける能力だけは、二十年間で育っている。
怪しいものを全部弾いて、残ったものを見た。
クラウドソーシング。ブログ。アフィリエイト。YouTube。プログラミング。せどり。
そして、株。
株。
画面の中で数字が動いて、安く買って高く売れば差額が利益になる。
——それ、俺が二十年間ゲームの中でやってきたことと同じじゃないか。
Ultimaのオークション。FF11の競売場。WoWのオークションハウス。
相場を見る。安い時に買う。高い時に売る。需要と供給。情報の非対称性。
同じだ。
同じなのに、ゲーム内では数千万ゴールド稼いだ俺が、リアルでは一円も稼いだことがない。
通貨が違うだけだ。
——本当にそうか。本当に「通貨が違うだけ」か。
分からない。だが試す価値はある。
しかも株なら、家から出なくていい。
家から出なくていい。
この一点が、今の俺には決定的に大きい。
コンビニまで歩くだけで汗だくになる男が、外で八時間働くのは不可能だ。だがPCの前に座って数字を見るのは、二十年間やってきたことだ。
証券口座を開設した。
ネットで申し込めた。マイナンバーカードはあった。姉貴が何年か前に作らせていた。「いつか必要になるから」と言って。あの時は意味が分からなかったが、今、意味が分かった。姉貴、ありがとう。言わないけど。
口座開設には審査がある。数日かかるらしい。
その間、チャートの読み方を勉強した。
ローソク足。移動平均線。ゴールデンクロス。デッドクロス。MACD。RSI。ボリンジャーバンド。
分かる。
分かるのだ。これは数字の動きのパターン認識だ。
ゲームのボス戦と同じだ。ボスには行動パターンがある。何ターン目にどの技を使うか、HP何パーセントで形態変化するか。パターンを覚えれば避けられる。
株にもパターンがある。ゴールデンクロスが出たら上がりやすい。RSIが七十を超えたら買われすぎ。出来高が急増したら何か起きている。
パターンは覚えられる。覚えるのは得意だ。二十年間、覚えることだけはやってきた。
三日間、寝る間を惜しんでチャートを見た。
四日目に、口座開設の通知が来た。
——入金した。
いくら入れるか迷った。
全額か。半分か。
ゲームなら全額突っ込む。ゲーム内通貨は失っても痛くない。時間をかければ取り戻せる。
リアルの金は、失ったら戻らない。
——だが。
迷っている間にも、食費が毎日千五百円消えている。
コンビニ飯を続ければ、百万は一年持たずに消える。
増やさなければ死ぬ。
守っていても死ぬなら、攻めて死んだほうがマシだ。
七十万入れた。
三十万を生活防衛資金として残した。
七十万でいく。
一週間の猛勉強で覚えたテクニカル分析。ストラテジーゲームで培った損切り判断力。MMOの競売場で鍛えた相場観。
武器は揃った。
——はずだった。
PCの横に、コンビニの空き容器が積み上がっている。
玄関のポストは、少し膨らみが増している。
どちらも、俺はまだ気にしていない。
残金:993,048円
(内訳:証券口座70万 + 銀行29万3,048円)
※食費7日分 約6,940円消費




