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第1話 書き置き


 リビングに降りたら、家具がなかった。

 正確に言う。俺は二十年間、自分の部屋からほとんど出ていなかった。そしてある日二階の自室から一階のリビングに降りたら、テレビがなくて、食卓がなくて、冷蔵庫がなかった。

 靴箱を見た。

 母さんの靴がない。父さんのサンダルがない。姉貴のスニーカーがない。

 俺のクロックスだけが残っている。十年前に姉貴が買ってきたやつで、左足のかかとにひびが入っている。

 テーブルがあったはずの床に、封筒と紙が置いてあった。

 封筒を開けた。

 金が入っていた。一万円札の束だ。数えた。百枚。百万円。

 百万円の下に、紙が一枚。姉貴の字だ。

  浩平へ

  お父さんとお母さんを連れて出ます。

  二人とも限界です。私も限界です。

  家はお父さんの名義のままにしてあります。

  すぐには売りません。

  光熱費は今月分まで払ってあります。

  生活費を置いていきます。手切れ金です。

  これで最後です。もう送金はしません。

  あなたはもう40です。

  自分でやってください。

  翔子

 手切れ金。

 姉貴らしい言い方だ。

 読み終わって、もう一回読んだ。三回目は読まなかった。

 百万円を持って部屋に戻った。

 PCの前に座った。

 モニターが二枚ある。左がメイン、右がサブ。キーボードはRealforceの静音。マウスはLogicoolのG502。椅子はニトリの一万二千円のやつで、座面が完全にへたっている。

 このデスクの前に、二十年いた。

 高校を出て、地元の国立に受かって、情報工学科に入って、二年目の夏に講義に行けなくなって、秋に大学をやめて、冬にこの椅子に座って、それから今日まで。

 モニターは三回替えた。キーボードは二回。マウスは五回。椅子は一回も替えていない。

 二十年間、何をしていたかというと、ゲームだ。

 最初はMMO。Ultimaで始まって、FF11に行って、WoWに行って、FF14に行った。WoWではギルドマスターをやっていた。四十人レイドの調整をやっていた。ソシャゲにも課金した。Steamのセールで買ったゲームが四百本ある。クリアしたのは六十本くらいだ。

 Ultimaでは不動産を買い占めて転売した。FF11では競売場で素材を買い占めて値段を釣り上げた。WoWではオークションハウスで毎日相場を見て、安い時に買って高い時に売った。

 ゲーム内のゴールドなら、いくらでも稼げた。

 リアルの金は、一円も稼いだことがない。

 飯は母さんが部屋の前に置いた。風呂は深夜、誰にも会わない時間に入った。洗濯は——たぶん姉貴がやっていた。

 二十年間、家族の金で飯を食って、家族の手で服を洗って、家族の払う電気でゲームをして、ゲームの中では数千万ゴールドの資産家だった。

 その家族が消えた。

 紙一枚と、百万円を残して。

 百万。

 これは多いのか少ないのか。

 多い。手切れ金としては多いほうだ、たぶん。姉貴は介護職だ。この金を貯めるのにどれだけかかったか。

 だが「これで暮らせるか」と聞かれたら、分からない。

 分からないのだ。電気代がいくらかかるか、知らない。ガス代も知らない。水道代も知らない。食費がいくら要るかも知らない。二十年間、考えたことがない。全部、姉貴がやっていた。

 百万が一年持つのか、三ヶ月で消えるのか、俺には分からない。

 分からないという事実が、たぶん一番まずい。

 ——さて。

 天井を見た。染みがある。十五年前の雨漏りの跡だ。

 俺は今、何を持っている。

 数えた。ゲーマーは数える。リソースを確認するのは、戦闘開始前の基本動作だ。

 一、百万円。減る一方。増やす手段がない。

 二、実家。持ち家。ローン完済済。住める。ただし名義は父さんだ。俺のものではない。勝手に売れない。住めるだけだ。

 三、PC。モニター二枚。ネット回線。いつ止まるか不明。

 四、体。動くかどうか怪しい。

 五——

 五は、出てこなかった。

 四つ。手持ち四つ。

 RPGでいうなら、初期装備が「ひのきのぼう」ですらなく、「ぬののふく」だけの状態だ。ぬののふくは百万円のことだ。守りにしかならない。攻撃力はゼロ。

 ——だが。

 「詰み」ではない。

 将棋で「詰み」というのは、王が取られることだ。どう動かしても次に取られる状態。逆に言えば、一手でも指せるなら、まだ詰んでいない。

 百万ある。家がある。体がある。ネットがある。

 一手は指せる。

 何を指すかは、まだ分からない。

 とりあえず、金をオンラインから扱えるよう、デビットカードにチャージしたい。百万を口座に入れておく必要がある。

 外に出なければいけない。

 靴を履いた。クロックスしかない。

 玄関のドアを開けた。

 光が目に刺さった。

 八月だ。昼の二時。気温は三十五度ある。

 コンビニまで徒歩五分のはずだ。

 十二分かかった。

 三回止まった。息が切れた。汗が滝のように出た。足の裏が痛い。太腿が震えた。

 コンビニ徒歩五分の距離で、三回止まって十二分。

 ステータスを数値化するなら、HP最大値が一般成人男性の四分の一くらいだ。MP(社会性ポイント)に至っては、測定不能。

 コンビニの自動ドアの前に立った。

 ドアのガラスに、人が映っていた。

 知らない男だ。

 太い。顔が丸い。顎が二つある。腹がTシャツの下から垂れている。髪はべたついていて、どこからが額でどこからが頭頂部なのか境目が分からない。肌の色が白いを通り越して青白い。目の下に隈がある。Tシャツに黄ばんだ染みがある。

 誰だ。

 俺は——二十歳の自分の顔を覚えている。大学に入った頃の、それなりに見られる顔を覚えている。細くはなかったが、太くもなかった。髪は黒くて多かった。

 ガラスに映っている男は、その面影がない。

 二十年間、風呂は深夜に入っていた。脱衣所の電気は暗い蛍光灯で、鏡は曇っていて、俺は自分の体をまともに見なかった。見ないまま二十年経った。

 これが、四十歳の俺か。

 八月の日差しの下で、コンビニのガラスが見せた答えが、これか。

 ——きつい。

 ゲームのキャラクリエイトなら、このパラメータは全部やり直す。全部消して、最初から作り直す。

 だがリアルにリセットボタンはない。このアバターで行くしかない。

 ATMで百万円を入金した。

 残高:1,000,418円。

 端数の418円は、昔の残りだ。ソシャゲの課金で使い切ったと思っていたが、半端が残っていた。

 百万四百十八円。

 これが全財産だ。

 コンビニで水を一本買った。百十円。おにぎりを二個。三百二十円。

 ——もう減った。

 コンビニの前のベンチに座って、おにぎりを食った。

 空を見た。

 青い。

 二十年ぶりに見る昼の空は、馬鹿みたいに青かった。

 こんなに青かったか。

 覚えていない。

 覚えていないが、悪くない。

 おにぎりは、味がした。シャケと昆布。

 二十年間、飯は母さんが作って部屋の前に置いてくれていた。温かい飯と味噌汁と、おかずが一品か二品。毎日。二十年間。

 今、コンビニのおにぎりを一人で食っている。

 冷たい。母さんの飯は温かかった。

 それでも腹には入る。腹に入るなら、生きていける。

 帰り道、玄関の横に車が停まっているのに気づいた。

 家の軽自動車だ。銀色のワゴンR。姉貴が通勤に使っていたはずだ。置いていったのか。引っ越し先に駐車場がなかったのか。単に忘れたのか。

 鍵を探した。玄関の靴箱の裏にあった。

 乗ってみた。エンジンはかかった。ガソリンはほぼ空だ。

 免許はある。十八の時に取った。一度も運転していないが、更新だけはしていた。免許センターへの往復が、二十年間で唯一の外出行事だった。

 使えるかもしれない。使える気がする。いつか。

 部屋に戻る途中、ポストの前を通った。

 ポストが膨らんでいる。

 チラシだろう。二十年間、ポストは姉貴が管理していた。俺が見たことはない。

 今日は開けなかった。チラシだろうから。

 部屋に戻った。PCの前に座った。

 百万ある。家がある。ネットがある。車もある。

 ゲーム内で百万ゴールドを元手に資産を増やせと言われたら、やれる。何度もやった。相場を読んで、安く仕入れて、高く売る。あるいは、希少なアイテムの出現パターンを読んで、先回りして買い占める。

 ——リアルでも、できるのか。

 できるかもしれない。できないかもしれない。

 だがゲームの金を増やすことと、リアルの金を増やすことに、原理的な差があるのか。需要と供給。情報の非対称性。先行者優位。

 同じではないか。

 ——同じだと思った瞬間に、少しだけ、心拍数が上がった。

 ゲームを始める前の感覚だ。新しいゲームのパッケージを開ける時の感覚。

 まだ何も始まっていない。何も分かっていない。だが画面が暗転して、ロゴが出て、タイトル画面が表示される直前の、あの数秒間。

 ——これから始まる。

 さて。

 ニューゲーム。

 始めるか。

    残金:999,988円

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