第37話 再会
日曜日。
電車に乗った。母さんの施設がある街まで、四十分。
名刺を二枚、胸ポケットに入れた。姉貴に渡す分と、母さん用にもう一枚。
電車の窓に自分が映っている。
七十四キロ。三年前は百キロ近かった。顎のラインが出ている。首がある。鎖骨が見える。ユニクロのMサイズのシャツを着ている。
姉貴が最後に俺を見た時、俺はXLのスウェットを着て部屋にいた。風呂に三日入っていなかった。髪はボサボサで、顎は二重で、目の下に隈があった。
今日の俺を姉貴は知らない。
——駅に着いた。
ファミレスは駅から五分だった。ジョナサン。自動ドアを開けて入った。
店内を見回した。
いた。
奥の席に、女性が一人座っている。
——姉貴だ。
三年ぶりの姉貴は、少し痩せていた。頬の肉が落ちている。髪が短くなっていた。前は肩より下だったのが、耳の上まで切っている。白髪が何本か混じっていた。
四十八歳。
姉貴が俺に気づいた。
目が合った。
姉貴の顔が固まった。
立ったまま、三秒か五秒か、お互いに動かなかった。
姉貴が口を開いた。
「——誰」
「浩平だけど」
「嘘」
「嘘じゃない」
「あんた——何キロ痩せたの」
「二十六キロ」
姉貴がまじまじと俺を見た。上から下まで。頭。顔。首。肩。腕。腹。足。
「……座って」
座った。対面に。テーブルを挟んで。
姉貴がまだ俺の顔を見ている。
「顔が違う。別人みたい」
「中身は同じだよ」
「中身も違うでしょ。電話してきたんだから」
——ドリンクバーを取りに行った。二人とも。姉貴はカフェオレ。俺はウーロン茶。
席に戻った。
沈黙。
対面の沈黙は、電話の沈黙より密度が高い。目の前に人がいる。目を逸らす場所がない。
「髪、切ったね」
俺が言った。
「仕事で邪魔だから。介護って体力仕事だから、長いと蒸れるの」
「お母さんの施設の近くで働いてるの?」
「違う施設。お母さんのとこは別。身内の施設で働くのは色々ややこしいから」
姉貴がカフェオレを飲んだ。
「電話で全部聞いたけど、信じられなくて。だから会いたかった。目で見ないと信じられない」
「見てどう?」
「……信じられない」
姉貴が笑った。三年ぶりの姉貴の笑顔だ。
目じりに皺が増えていた。三年前にはなかった皺だ。
「名刺持ってきた?」
「持ってきた」
胸ポケットから一枚取り出した。テーブルの上に置いた。
姉貴が手に取った。
「株式会社ギルド。代表取締役。時田浩平」
声に出して読んだ。村瀬と同じだ。名刺をもらった人は声に出して読む。
「ギルドって、ゲームの?」
「ゲームのギルドと、中世の職業組合。両方の意味」
「あんたらしいわ」
姉貴が名刺を財布にしまった。
「もう一枚ちょうだい。お母さん用」
もう一枚渡した。
「お母さん、なんて言うかな」
「腰抜かすって言ってたでしょ」
「抜かすよ。間違いなく。あの人、あんたのこと毎日心配してたから。施設に入ってからも、『浩平は大丈夫かしら』って。私は『大丈夫じゃないと思うけど、自分で何とかするしかない』って言ってた」
「……大丈夫じゃなかった」
「でしょうね」
「最初の半年は本当に大丈夫じゃなかった。株で八十二万溶かした」
「電話で聞いた。正気じゃないでしょ」
「正気じゃなかった。あの時はまだ何も分かってなかった」
「今は分かってるの?」
「少しは」
姉貴が俺のウーロン茶を見て、言った。
「お酒飲まないの」
「飲めない。ビール苦くて」
「あんた、四十三にもなってビールも飲めないの」
「ウーロンハイなら飲める」
「頼みなさいよ」
「昼から?」
「三年ぶりの再会でしょ」
ウーロンハイを頼んだ。姉貴は梅酒のソーダ割りを頼んだ。
来た。グラスを持ち上げた。
「乾杯、って言うの? こういう時」
「知らないの」
「ファミレスで姉貴と乾杯したことない」
「初めてだもんね」
グラスを合わせた。ガラスの音がした。サイゼリヤのプラスチックとは違う、硬い音だった。
飲んだ。ウーロンハイは甘くて軽い。
「あのさ」
「ん」
「あの書き置き。残酷だって思った?」
姉貴が聞いた。目を逸らさずに。
「……最初は」
「最初は?」
「最初は、何が起きたか分からなかった。家族がいなくなったことが理解できなかった。残酷っていう感情の前に、意味が分からなかった」
「うん」
「でも途中から分かった。あれがなかったら、俺は今もあの部屋にいた。百キロのまま。ゲームだけして。母さんの作った飯を食って。何もしないまま。五十歳になっても六十歳になっても」
「……」
「だからありがとう。残酷で、ありがとう」
姉貴がグラスを置いた。
梅酒に口をつけずに。
「私ね、あの日、書き置き書いた後に三回書き直したの」
「三回?」
「最初に書いたやつは、もっと厳しかった。『いい加減にしろ』とか『甘えるな』とか。怒りで書いた。でも怒りの手紙を置いていったら、あんた死ぬかもしれないと思った」
「……」
「二回目は、優しくしすぎた。『いつでも連絡して』『困ったら帰ってきて』。でもそう書いたら、あんたは連絡して帰ってきて、何も変わらない。元に戻るだけだ」
「うん」
「三回目で、あの文面になった。突き放すけど、最後に『生きてください』を入れた。あの一行だけは削れなかった」
生きてください。
あの一行。
「生きた」
「うん。生きてる」
「——もう一杯頼んでいい?」
「好きなだけ飲みなさい」
ウーロンハイの二杯目を頼んだ。姉貴も梅酒のお代わり。
「ねえ浩平。一つだけ聞きたいことがある」
「なに」
「あんた、彼女とかいるの」
——来た。
電話では言わなかった話だ。
「いた。一回だけ」
「いたの? あんたに彼女?」
「いた。三ヶ月だけ。壮絶だった」
「壮絶?」
「長い話になる」
「聞く」
リナの話をした。
マチアプで出会ったこと。毎晩の電話。初めて手を繋いだこと。深夜のLINE爆撃。連絡先を消させられたこと。金を取られたこと。「死ぬ」と言われたこと。ブロックして、二ヶ月かけて離れたこと。
姉貴は黙って聞いていた。
全部話し終わった後、姉貴が言った。
「それ、よく一人で切り抜けたね」
「一人じゃない。後藤さんっていうハローワークの人と、村瀬っていう訓練校の友達に助けてもらった」
「友達。あんたに友達ができたんだ」
「できた。二十年ぶりに」
姉貴が梅酒を飲んだ。
「男の人で、あんたの話を聞いてくれる人ができたんだ」
「うん」
「よかった。本当に。それが一番よかった」
名刺でも会社でも株でもなく、友達ができたことが一番よかったと、姉貴は言った。
たぶん、そうだ。
——二時間話した。
ファミレスのランチタイムが終わって、客が減って、店員がテーブルを拭いて回る時間になっても話していた。
姉貴の三年間も聞いた。
母さんを受け入れてくれる施設を探す手続き。自分のアパートを借りる手続き。介護の仕事を見つけること。一人暮らし。
「私も一人暮らし初めてだったのよ。四十五で」
姉貴もずっと実家にいた。母さんと俺の面倒を見るために。
「あんたが引きこもってる間、私も出られなかったの。あんたを置いて家を出るわけにいかないし、お母さん一人に任せるわけにもいかないし。結婚も考えたけど、無理だった。この家の状況を説明して、一緒に背負ってくれる人なんていなかった」
「……ごめん」
「謝んないで。もう終わったことだから。あんたが変わったなら、終わったことにできる」
終わったことにできる。
変わらなければ、終わったことにはならなかった。
——帰り際。
ファミレスの駐車場で、姉貴が言った。
「来月、お母さんに会いに行く?」
「……まだ怖い」
「怖い?」
「お母さんに会って、何て言えばいいか分からない」
「名刺見せればいいのよ。あの人、泣くから。泣いて、抱きしめて、また泣くから」
「それが怖い」
「怖くていいよ。怖いまま行きなさい」
——姉貴が手を伸ばした。
俺の腕を掴んだ。
「痩せたね。本当に」
腕を握っている。三年前なら指が回らなかった腕だ。
「筋肉ついてない? あんた」
「ジムで泳いでる。週三回」
「水泳。あんたが水泳」
信じられないという顔で俺の腕を握っている。
「ねえ浩平」
「ん」
「三年前、あんたに言いたかったけど言えなかったことがある。私が出て行く側だったから」
「うん」
「おかえり」
——おかえり。
三年間、誰にも言われなかった言葉だ。
家を出た時に「いってきます」と言った記憶がない。帰った時に「ただいま」と言った記憶がない。
二十年間、出入りのない部屋にいたから。
「……ただいま」
声が震えた。
姉貴が笑った。泣いていなかった。今度は本当に泣いていなかった。
「また来てね。お母さん、待ってるから」
「うん」
駅まで歩いた。
振り返ったら、姉貴がまだ駐車場に立っていた。
手を振った。
姉貴が手を振り返した。
電車に乗った。
窓に自分が映っている。
七十四キロ。Mサイズのシャツ。胸ポケットに名刺が入っていた場所が、少しだけ凹んでいる。一枚は姉貴に渡した。一枚は姉貴が母さんに届ける。
帰りの電車は、行きの電車より短く感じた。




