第36話 電話
LINEの友達リストを開いた。
一番上に「姉貴」がある。
三年間、一度もタップしていない。
メッセージを送ったこともない。電話をかけたこともない。既読をつけたこともない。姉貴の方からも何も来ていない。
お互いに、何も。
三年間。
——電話をかけよう、と思ったのは名刺ができた日ではなかった。
後藤さんに名刺を送った日でもなかった。村瀬とサイゼリヤで乾杯した日でもなかった。
昨日だ。
昨日の夜、布団に入って、天井を見ていた。眠剤は飲んでいない。三ヶ月以上飲んでいない。
天井の染みを見ていた。雨漏りの跡。中学の時の台風の後にできた染みだ。
この染みを姉貴も知っている。
この家に一緒に住んでいた。台風の夜、姉貴が「雨漏りしてる!」と叫んで、母さんが洗面器を持ってきて、俺はゲームをしていた。
姉貴は俺より五つ上だ。今、四十五歳。介護の仕事をしている。
三年前の書き置きには「もう限界です」と書いてあった。
「浩平を二十年間見てきましたが、このままでは共倒れになります」
「お母さんは施設に入ります。私も別の場所で暮らします」
「残酷だと思うかもしれません。でもこれが最後の手段です」
「百万円を置いていきます。これで当面の生活はできるはずです」
「生きてください」
生きてください。
あの書き置きの最後の一行。
生きている。
生きている、と伝えたい。
それだけだ。会社を作ったとか、代表取締役だとか、そういうことではない。
生きている、と。
——スマホを持った。
LINEの音声通話ボタンが画面にある。緑のボタンだ。タップすれば電話がかかる。
三年前はこのボタンが押せなかった。ハローワークに電話するのに三十分かかった男だ。
今は押せる。後藤さんに電話できる。村瀬に電話できる。税理士に電話できる。ゲーム会社にZoomで話せる。
電話ができるようになった。
だが姉貴への電話は別だ。
仕事の電話ではない。用件がある電話ではない。「確定申告の相談です」「SNS運用の件です」。そういう用件がない。
用件は一つだけだ。
生きている。
——押した。
緑のボタンを押した。
呼び出し音が鳴った。
プルルルル。
一回。
プルルルル。
二回。
出ない。
三回。四回。五回。
出ない。
着信拒否されているのかもしれない。番号を変えたのかもしれない。もう姉貴のLINEではないのかもしれない。
六回。七回。
切ろうかと思った。
八回目の途中で、音が止まった。
繋がった。
沈黙。
向こうからの声がない。
「……もしもし」
俺が先に言った。
沈黙。三秒。五秒。
「……浩平?」
姉貴の声だ。
三年ぶりの姉貴の声だ。
少し低くなった気がする。三年分、歳を取った声だ。だが姉貴の声だ。
「うん。浩平」
沈黙。
長い沈黙。十秒か。二十秒か。
電話越しの沈黙は、対面の沈黙より長く感じる。相手の顔が見えないから。相手が何を考えているか分からないから。
「生きてた」
姉貴が言った。俺が言おうとしていた言葉を、姉貴が先に言った。
「生きてたんだ」
「——うん。生きてる」
また沈黙。
「電話、出るか迷った」
「……うん」
「三年間、何回もかけようと思った。でもかけなかった。かけたら意味がなくなると思って」
意味。
姉貴が家族を連れて出て行ったのは、俺を追い込むためだ。退路を断つためだ。百万円という手切れ金を渡して、「自分で生きろ」と突き放した。
電話をかけたら、その突き放しが無効になる。「結局心配してるんじゃないか」と俺が甘える。
だから姉貴はかけなかった。三年間。
「俺も、かけなかった」
「うん」
「かけられなかった。最初は電話が怖くて。途中からは、何て言えばいいか分からなくて」
「……今は?」
「今は——」
言葉を探した。
会社を作った。デイトレで五百万稼いだ。YouTubeの登録者が一万二千人いる。体重が二十六キロ落ちた。
全部言えるが、どれも違う。
「今は、電話ができるようになった。だからかけた」
姉貴が黙った。
何かの音がした。鼻をすする音だ。
「お姉ちゃん——」
「泣いてない」
泣いている。
「泣いてないから。鼻水」
嘘だ。だが姉貴はそういう人だ。泣いていないと言いながら泣く人だ。
「お母さんは元気?」
「元気。施設で元気にやってる。友達もできた。お母さんはお母さんで、浩平がいなくなって——いなくなってっていうか、離れて——自分の生活ができるようになった」
母さんも、俺から離れて自分の生活ができるようになった。
俺がいることで、母さんの生活を縛っていた。
「ごめん」
「何が」
「二十年間、迷惑かけた」
「……今さらそれ言う?」
「今さらしか言えなかった。三年前は言えなかった。何が迷惑なのかも分かってなかった」
「分かったの?」
「分かった。外に出て、働いて、人と関わって。自分がどれだけ何もしてなかったか分かった」
姉貴がまた黙った。
「浩平。一つ聞いていい?」
「うん」
「百万円、使い切った?」
百万円。手切れ金。
「使い切ってない」
「え」
「一回、株で八十二万溶かして、十八万まで減った。でもそこから——色々あって——今は百万に戻した。というか百万以上ある」
「……株?」
「長い話になる」
「聞く。時間はある」
——話した。
全部話した。
コンビニまで十二分かかったこと。ハローワークで後藤さんに会ったこと。株で溶かしたこと。訓練校に通ったこと。村瀬と長谷川さんに会ったこと。Uberで走ったこと。せどりを始めたこと。
リナの話はしなかった。姉貴に彼女の話をする勇気はまだなかった。
メルカリでBANされたこと。攻略サイトを作ったこと。YouTubeを始めたこと。AIに仕事を奪われたこと。ゲーム会社からSNS運用を受注したこと。デイトレで五百万を作ったこと。
会社を作ったこと。
「——株式会社ギルド。代表取締役、時田浩平」
沈黙。
長い沈黙。
「……嘘でしょ」
「嘘じゃない」
「あんたが? あの浩平が? 部屋から出てこなかった浩平が?」
「部屋から出た。出たら色々あった」
姉貴が笑った。笑いながら泣いている声だった。
「泣いてない」
「泣いてるでしょ」
「泣いてない。笑ってるの。あんたが会社作ったって聞いて、笑ってるの。おかしくて」
おかしいだろう。俺もおかしいと思う。
「会えない?」
俺が言った。
言えた。
三年前は言えなかった。「会いたい」と言うことが。
「……会いたい。私も会いたい」
「じゃあ——」
「来週の日曜日。お母さんの施設の近くにファミレスがある。そこでいい?」
「いい」
「お母さんにも会う?」
「……まだ早い。まず姉貴と話したい」
「分かった」
日曜日。来週の日曜日。
「あ、浩平」
「ん」
「その名刺、持ってきて」
「持ってく」
「お母さんに見せる用にもう一枚ちょうだい。あの人、息子が社長だって知ったら腰抜かすから」
——電話を切った。
四十三分。通話時間が四十三分だった。
四十三歳の男が、四十三分間、姉と電話をした。
スマホを置いた。
手が震えていた。
ゲーム会社のZoomでは震えなかった。後藤さんへの電話では震えなかった。村瀬へのLINEでは震えなかった。
姉貴との電話で、手が震えている。
四十三分。
三年分の空白を埋めるには短すぎるが、最初の一歩としては長すぎるくらいだ。
——布団に入った。
天井を見た。
雨漏りの染み。
姉貴がこの染みを知っている。母さんが洗面器を持ってきた夜を覚えている。
俺が部屋でゲームをしていた夜だ。
姉貴は「雨漏りしてる!」と叫んで、洗面器を持って走り回って、俺はヘッドセットをつけてレイドをしていた。
何もしなかった。
二十年間、家族が走り回っている間、俺は何もしなかった。
来週、会う。
名刺を持っていく。
名刺一枚で二十年は埋まらない。
だが名刺がある。持っていける。
三年前の俺には、持っていけるものが何もなかった。
目を閉じた。
眠れた。すぐに眠れた。




