第22話 爆撃
最初の異変は、訓練校の修了式の夜だった。
修了式では長谷川さんが泣いた。予想通りだった。教室を出る時に「時田さん、頑張ってね」とタッパーを渡された。中身は煮物だった。最後まで煮物だった。
村瀬とは「また飲みに行こう」と言い合った。訓練校がなくなっても、LINEがある。月に一回くらい会えばいい。
夜、リナに電話した。
「訓練校終わったんだ」
「おつかれー。じゃあもう毎日暇じゃん。もっと会えるね」
「まあ、Uberとかあるけど——」
「ねえ、今日誰と話してた?」
「え?」
「修了式でしょ。誰と話してたの」
「同期の人たちと——」
「女の人いた?」
「……長谷川さんっていう、おばちゃんがいたけど」
「ふーん」
その時は、気にしなかった。
——四月に入った。訓練校がなくなった。給付金の最後の振り込みがあった。来月からゼロになる。
リナとの電話は毎晩続いていた。十一時に始まる。
だが終わる時間が遅くなっていた。
午前一時で切れていたのが、午前二時になり、午前三時になった。
「もう寝ないと」
「えー。もうちょっと」
「明日Uberあるから」
「じゃああと十分だけ」
十分が三十分になる。三十分が一時間になる。
切ろうとすると、声のトーンが変わる。
「なんで切るの」
「もう三時だから——」
「私と話すのつまんない?」
「つまんなくない。ただ——」
「ただ何。寝るのと私とどっちが大事なの」
どっちも大事だ。だがそう言うと怒る。
「リナが大事だよ」
「じゃあ切らないで」
切れない。
午前四時まで話した。五時間。目が痛い。明日——もう今日だ——のUberは休むしかない。
「おやすみ、浩平さん」
「おやすみ」
——眠れなかった。
疲れているのに眠れない。脳が興奮している。五時間の通話で脳が過熱している。
眠剤を飲んだ。
久しぶりの眠剤だ。リナと付き合い始めてから飲んでいなかった。
薬より効くと思っていたリナの声が、今は薬が必要な原因になっている。
——【段階1】は、こうして始まった。
深夜のLINE爆撃。
電話が終わった後に来る。午前四時。五時。布団に入ってから。
「ねえ起きてる?」
「寝た?」
「浩平さん」
「返事して」
「無視?」
「無視するの?」
「なんで無視するの」
「怒ってる?」
「私なんかした?」
「ねえ」
「ねえってば」
十一通。午前四時十五分から四時四十八分までの三十三分間に、十一通。
未読にした。寝ていたからだ。寝ていたのに、朝起きて十一通の通知を見た時、胃が冷えた。
既読をつけた。
電話が来た。
「なんで返事しなかったの」
「寝てた」
「嘘。さっきまで話してたのに、すぐ寝られるわけないじゃん」
「眠剤飲んだから——」
「薬飲んで私のLINE無視したってこと?」
違う。寝るために飲んだのだ。無視するために飲んだのではない。
だがリナにとっては同じことだった。「寝た=私より睡眠を選んだ」だった。
——【段階2】。
四月の半ば。リナの部屋にいた時だ。
リナが俺のスマホを手に取った。
「ちょっと見ていい?」
断る間もなかった。LINEを開いた。友達リストを開いた。
「この長谷川典子って誰」
「訓練校の同期。五十六歳のおばちゃん——」
「女じゃん」
「五十六歳だよ」
「年齢関係なくない? 女は女でしょ」
関係ある。大いに関係ある。長谷川さんは俺に黒豆をくれたおばちゃんだ。恋愛対象ではない。
だがリナにとっては「女の連絡先が入っている」という事実だけが問題だった。
「消して」
「え」
「消してよ。女の連絡先」
「長谷川さんは——」
「消してって言ってるの」
リナの目が据わっていた。
さっきまでゲームをして笑っていた目が、別の目になっていた。
消した。
長谷川さんの連絡先を、長押しして、「削除」を押した。
第16話で「ゼロの人間にとって二人は奇跡だ」と思った。その奇跡の一つを、自分の手で消した。
「サキってのは?」
サキさん。友達として会ったデザイナー。アニメの話で盛り上がった人。
「友達——」
「女友達でしょ。消して」
消した。
LINE友達。姉貴、村瀬、リナ。
三人に戻った。
「他にはいないよね?」
「いない」
「見せて」
見せた。三人。リナが確認した。
「村瀬って男?」
「男。訓練校の同期」
「ふーん」
その日は村瀬については何も言わなかった。
——【段階3】。
村瀬から週に一、二回LINEが来ていた。
「最近どうよ」「飯行かね?」「新しいソシャゲ出たぞ」。
返信していた。短く。リナとの電話の合間に。
ある夜、リナとの電話中に村瀬からLINEが来た。通知音が鳴った。
「誰?」
「村瀬。前に言った——」
「また? 毎日来るじゃん」
「毎日じゃないよ。週に一、二回——」
「男友達でも毎日LINE来るのおかしくない?」
毎日ではない。週に一、二回だ。だが訂正すると話が長くなる。
「そうかな」
「私と話してる時に他の人にLINE返すのやめてくれない?」
「返してないよ。通知が来ただけで——」
「通知切って」
村瀬の通知を切った。
翌週、村瀬から「飯行こうぜ」とLINEが来ていた。三日間気づかなかった。通知を切っていたからだ。
返信した。「ごめん、ちょっと最近忙しくて」
村瀬から返信。「彼女か?」
「……うん」
「そうか。まあ落ち着いたら連絡してくれ」
村瀬は察した。営業を十二年やっていた男だ。察する能力がある。
正月に俺を布団から引きずり出した男との繋がりが、少しずつ細くなっていった。
——【段階4】。
五月。
リナから電話が来た。声がいつもと違った。
「ねえ、今月ちょっときつくて」
「きつい?」
「バイトのシフト減らされて。家賃払えないかも」
「……いくら足りないの」
「二万くらい」
二万。
俺の残金は百万を切り始めていた。給付金がなくなって、収入はUberとせどりだけだ。月十五万の収入で、生活費を引くとほぼ残らない。
だが彼女が困っている。彼女が家賃を払えないと言っている。
「振り込む」
「ほんと? ありがとう、浩平さん。来月返すから」
二万を振り込んだ。
翌月。返ってこなかった。
代わりに「今月もちょっときつくて」と来た。
「三万貸してくれない? 来月まとめて返すから」
三万。先月の二万と合わせて五万。
貸した。
その翌月も来た。「二万だけ」。
合計七万。
返ってこない。「返す」とは言うが、日付を言わない。「来月」と言うが、来月になると「もうちょっと待って」になる。
——ソシャゲの課金と同じだ。
ソシャゲの課金は「これが最後」と思って課金する。だが最後にならない。次のガチャが来る。次のイベントが来る。「これが最後」が永遠に続く。
リナへの金も「これが最後」が来ない。
気づいている。気づいているが、止められない。
止めたら——リナがいなくなる。
リナがいなくなったら、夜が来る。天井が来る。不眠が来る。
七万で夜を買っている。
——【段階5】。
六月。
「別れたい」と言った。
電話で言った。言うまでに一週間かかった。毎晩、言おうとして、言えなくて、また翌日に持ち越して。
一週間目の夜、言った。
「リナ、別れたい」
沈黙。
五秒。十秒。二十秒。
「……なんで」
「いろいろ考えて——」
「いろいろって何。私のこと嫌いになった?」
「嫌いじゃない。でも——」
「でも何。金のこと? 返すって言ってるじゃん」
「金のことだけじゃなくて。深夜のLINEとか、連絡先消させたりとか——」
「は? 私が悪いってこと? 浩平さんが女の連絡先持ってるのが悪いんじゃないの?」
「長谷川さんは五十六歳の——」
「その話もうやめて!」
リナが叫んだ。電話越しに叫ばれたのは初めてだった。
「別れるなら死ぬ」
——死ぬ。
「死ぬから。浩平さんが別れるって言うなら、私死ぬから」
「リナ——」
「今から手首切る」
電話が切れた。
——心臓が止まった。
嘘かもしれない。脅しかもしれない。
だが「かもしれない」で済ませられない。
LINEを送った。
「リナ、大丈夫? 返事して」
既読がつかない。
電話をかけた。出ない。
もう一回かけた。出ない。
三回目。出た。
「……なに」
「大丈夫? 手首——」
「切ってないよ。でも切りたい。浩平さんが別れるって言うなら切る」
「別れない。別れないから、切らないで」
「……ほんと?」
「ほんと」
嘘だ。別れたい。だが「別れたい」と言うと「死ぬ」と言われる。
——詰んだ。
ゲームでいう詰み。どの選択肢を選んでも負ける状態。
別れると言えば「死ぬ」。別れないと言えば今の地獄が続く。
翌日、写真が来た。
リナの左腕の写真だ。手首の内側に、赤い線が何本か走っている。
浅い。たぶん浅い。血は出ていない。爪で引っ掻いた跡のように見える。
だが見た瞬間、吐きそうになった。
——後藤さんに電話した。
ハローワークの後藤さん。訓練校は終わったが、就職支援の担当は続いている。月に一回の面談がある。
面談の予定外に電話した。
「後藤さん、相談があります」
後藤さんは黙って聞いた。全部話した。リナのこと。LINE爆撃。連絡先を消させられたこと。金。「死ぬ」。腕の写真。
後藤さんが言った。
「その子から離れた方がいい。でも離れ方が大事だ」
「離れ方?」
「ブロックしろ。全部ブロックしろ。LINEも電話も。ブロックした後、何があっても反応するな。反応したら終わらない。反応しないことが唯一の方法だ」
「でも、死ぬって——」
「本当に死にそうなら、あんたじゃなくて救急に電話する。あんたに言ってるのは、あんたを繋ぎ止めるためだ。あんたが反応するから、繰り返す」
「……」
「俺も似たような相談を何件も受けてきた。パターンは同じだ。反応すると続く。反応しないと、いつか止まる」
いつか止まる。
いつかがいつなのかは、分からない。
「ただし」と後藤さんが言った。「一人でやるな。周りに話しておけ。今から何をするか、なぜするか、誰かに話しておけ。一人で抱えると潰れる」
周り。
俺の周りに誰がいる。
村瀬。
通知を切って、返信が遅れて、「忙しい」と嘘をついた村瀬。
——その夜、ブロックした。
リナのLINEをブロックした。電話番号も着信拒否にした。
指が震えた。ブロックする指が震えた。
ブロックした瞬間、部屋が静かになった。
毎晩鳴っていた通知音が消えた。毎晩聞いていた声が消えた。
静かだ。
正月のフリーズの時と同じ静寂だ。
——だが、終わらなかった。
翌日、知らない番号から電話が来た。
出てしまった。
「浩平さん、なんでブロックしたの」
リナだ。別の番号からかけている。
「リナ、もう——」
「会って話そう。ちゃんと話せば分かるから」
切った。番号を着信拒否に追加した。
二日後、別の番号から来た。また着信拒否にした。
三日後、知らないLINEアカウントから友達申請が来た。リナだ。名前もアイコンも違うが、最初のメッセージで分かった。
「お願いだからブロック解除して」
ブロックした。
一週間後、インターホンが鳴った。
出た。
リナが立っていた。
俺の家の前に。
——住所を知っていた。
二回目のデートの時、送ってもらった時に場所が分かったのだ。
「帰って」
「会いたい。話したい」
「帰ってくれ」
「なんで。私何かした?」
ドアを閉めた。鍵をかけた。
インターホンが鳴り続けた。五分。十分。
止まった。
窓から見た。リナが歩いて行くのが見えた。
胃が痛い。吐きそうだ。
——その夜、知らないアカウントからLINEが来た。
リナではなかった。リナの「友達」と名乗る人物だった。
「リナが入院しました。あなたのせいです」
「治療費を払ってください。払わないなら警察に相談します」
——後藤さんに電話した。
「反応するな」
「でも入院って——」
「本当かどうか確認する方法がない。確認しようとすること自体がリナとの接点になる。反応するな。繰り返すが、反応するな」
反応しなかった。
ブロックした。
——だが反応しなくても、罪悪感は消えなかった。
リナが本当に入院していたら。本当に手首を切っていたら。俺のせいで。
俺が別れると言ったから。俺がブロックしたから。
フリーズした。
正月のフリーズより、深かった。
布団から出られない。Uberに行けない。ジムに行けない。飯が食えない。
一日目。布団にいた。
二日目。布団にいた。
三日目。水だけ飲んだ。
四日目。村瀬にLINEを送った。通知は切ったままだが、送信はできる。
「村瀬さん。ごめん。ずっとLINE無視しててごめん。少し話せないかな」
返信は十分で来た。
「どうした」
「彼女と別れた。色々あった。直接話したい」
「明日飯食いに行こう。どこがいい」
「どこでもいい」
「じゃあ駅前のサイゼリヤ。12時な」
——五日目。布団から出た。
五日目で出られた。正月は三日だった。今回は五日。長くなった。
だが出られた。
サイゼリヤで村瀬と向かい合った。ミラノ風ドリアを二つ頼んだ。
全部話した。リナのこと。LINE爆撃。連絡先を消させられたこと。金。「死ぬ」。腕の写真。ブロック。家に来たこと。友人を名乗る人物からの連絡。
村瀬はミラノ風ドリアを食いながら聞いていた。
全部話し終わった後、村瀬が言った。
「知ってた」
「……え」
「メンヘラだろ。LINEの返事が急に遅くなって、『忙しい』って嘘ついた時点で分かった。俺も元嫁がそうだった」
「村瀬さんの元奥さんも——」
「同じだ。深夜のLINE。連絡先チェック。金の要求。『離婚するなら死ぬ』。全部同じパターンだ」
全部同じ。
「俺は三年かかった。三年間、嫁のパターンに巻き込まれて、最後は弁護士入れて離婚した。あんたは三ヶ月で切れた。早い方だ」
三ヶ月。
「LINEの通知切ったの、気にしてない。分かってたから。ただ——」
村瀬がドリアのスプーンを置いた。
「次からは相談しろ。一人で抱えるな」
後藤さんと同じことを言った。
「一人で抱えると詰むんだよ。俺は三年一人で抱えて、最後は酒に逃げて会社辞めた。あんたは三ヶ月で誰かに相談した。後藤さんに電話した。それが正解だ」
「村瀬さんのLINE、消させられそうになった」
「知ってる。消されてたら俺から連絡する手段がなかったから、危なかった。消さなくてよかった」
消さなかった。長谷川さんとサキさんは消した。だが村瀬だけは消さなかった。
理由は分からない。リナに「消して」と言われなかったからかもしれない。村瀬が男だったからかもしれない。
理由は何でもいい。消さなかったことが、今日ここに座っている理由だ。
「長谷川さんのLINE、消しちゃった」
「連絡先聞けばいいだろ。俺持ってるよ」
村瀬が長谷川さんの連絡先を送ってくれた。
LINEで友達追加した。メッセージを送った。
「長谷川さん、時田です。以前LINEの連絡先を消してしまって、すみませんでした」
三十分後、返信が来た。
「あら時田さん! 元気にしてた? 気にしてないわよ。でも次からは相談しなさいね」
——気にしてないわよ。
気にしていないと言ってくれた。
でも次からは相談しなさい。
後藤さんも村瀬も長谷川さんも、全員同じことを言っている。相談しろ。一人で抱えるな。
四十年間、一人で全部を抱えてきた。一人で部屋にいて、一人で問題を抱えて、一人で腐っていた。
一人で抱えるのが当たり前だった。
だが当たり前は、正しくなかった。
——リナからの連絡は、その後も散発的に来た。
知らない番号。知らないアカウント。来るたびにブロックした。反応しなかった。
六月の終わり。
来なくなった。
二ヶ月かかった。ブロックして、反応せず、二ヶ月で途絶えた。
後藤さんの言った通りだった。反応しなければ、いつか止まる。
——七万円は返ってこなかった。
メンタルクリニックに行った。
先生に話した。「恋愛関係で消耗しました」。
先生が頷いた。
「眠れていますか」
「眠れない日が多いです」
「眠剤を再開しましょう。それと、頓服で抗不安薬を出します。不安が強い時だけ飲んでください」
処方箋をもらった。エスゾピクロンと、頓服のエチゾラム。
薬局で受け取った。
二種類の薬を持って帰った。
テーブルに置いた。
眠剤と抗不安薬。前は眠剤だけだった。増えた。
リナは「薬より効く」と思った相手だった。
その相手がいなくなって、薬が増えた。
人は薬の代わりにはならない。薬は人の代わりにはならない。
どちらも道具だ。どちらも必要な時に使う。だが混同してはいけない。
リナを薬の代わりにした。それが間違いだった。
人は処方箋では手に入らない。
だが処方箋では手に入らないものに、自分の睡眠を預けてはいけなかった。
——眠剤を飲んだ。
三十分後、眠れた。
薬で眠った。薬で十分だ。
残金:892,789円
(内訳:証券口座14万円 + 銀行66万2,789円 + NISA9万円 ※NISA評価額+8,200円)
※収入:Uber Eats +52,000円(フリーズ期間で稼働減)
※収入:求職者支援給付金 0円(終了)
※収入:メルカリせどり +18,000円
※食費:約14,000円(食欲減退)
※ガソリン代:約5,000円
※光熱費:約10,000円(夏前)
※通信費:約11,500円
※国民健康保険:約1,500円
※ジム月額:約7,800円(フリーズ中は行けず)
※プロテイン:約3,200円
※メンタルクリニック再診:約1,500円
※眠剤+抗不安薬:約1,800円
※マチアプ月額:解約済 0円
※NISA積立:−30,000円
※リナへの貸し(回収不能):−70,000円(累計)
★給付金終了+リナ損失で100万割れ。892,789円★
★フリーズ期間:5日間(前回3日→悪化)★
★LINE友達:4人(姉貴・村瀬・長谷川さん・サキさん復帰保留)★
★薬:眠剤+頓服追加。「人は薬の代わりにならない」★




