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第21話 リナ


 三月の終わり。訓練校の修了式が近づいていた。

 マチアプの通知が来た。

 「いいね」ではなかった。メッセージつきいいね。

 「プロフ見ました! ゲーム好きなんですね! 私もです! めっちゃ嬉しい! RPG好きって書いてあるけど何やってますか??」

 感嘆符が五つ。疑問符が二つ。テンションが高い。

 プロフィールを見た。

 リナ。二十五歳。フリーター。趣味「ゲーム、アニメ、猫」。自己紹介「人見知りだけど慣れたらめっちゃ喋ります笑 ゲーム一緒にやってくれる人ほしい!」

 写真。

 可愛い。

 率直にそう思った。茶色い髪。大きい目。白い肌。少し上目遣い。加工しているかもしれない。だが加工を差し引いても、今まで見たどの女性よりも反応がいい顔だ。

 二十五歳。

 俺は四十歳だ。十五歳の差がある。

 十五歳差に「いいね」を送ってくる二十五歳。

 ——なぜだ。

 サキさんは三十五歳で「友達」だった。ユミさんは三十歳で「恋愛の感じは違う」だった。二十五歳が四十歳にメッセージつきいいねを送ってくる理由が分からない。

 分からないが、来ている。

 返信した。

 「いいねありがとうございます! RPGはいろいろやりますが、最近はソシャゲが多いです笑 リナさんは何やってますか?」

 返信は三分で来た。

 三分。

 ユミさんは一日かかった。サキさんは半日かかった。マキさんは数時間かかった。

 三分。

 「ソシャゲ分かるーー! 私も課金やばいです笑 今はブルアカとか原神とかやってます! 時田さんは??」

 返信した。相手も返した。三分。また返した。五分。返した。二分。

 チャットだ。

 メッセージのやり取りではなく、リアルタイムのチャットになっている。ギルドチャットと同じ速度だ。

 一時間で三十通を超えた。

 ブルアカの話。原神の話。ソシャゲの課金の話。推しキャラの話。ガチャの爆死の話。

 止まらない。

 リナの言葉は軽い。「まじ?」「うける笑」「それな!」「分かるーー」。内容は薄い。だが速い。速いことが楽しい。ポンポン返ってくることが楽しい。会話のラリーが途切れないことが楽しい。

 三人のデートで感じた「沈黙」がない。リナとの間に沈黙は存在しない。

 二時間後。

 「ねえ、LINEにしない? アプリだと通知来ないことあるし」

 LINE交換。

 サキさんとは三回目のデートの後にLINE交換した。リナとは、会う前に。メッセージを始めてから二時間で。

 速い。速すぎる気もする。

 だが断る理由がない。

 QRコードを送った。

 リナがLINE友達に追加された。四人目。姉貴、村瀬、サキさん、リナ。人間は四人になった。

 LINEに移行した。速度がさらに上がった。スタンプが飛んでくる。猫のスタンプ。うさぎのスタンプ。よく分からないキャラクターのスタンプ。

 「時田さんって何歳?」

 プロフィールに書いてある。四十歳と書いてある。だが聞いてきた。

 「40です」

 「えー! 全然見えない! 写真もっと若く見える!」

 見えないわけがない。四十歳は四十歳だ。だが言われると少し嬉しい。

 「リナさんは25歳でしょ。15も離れてるけど大丈夫?」

 「年上のほうが好き笑 同い年とか年下ってガキっぽくて無理なんだよね」

 年上のほうが好き。

 この言葉を、額面通りに受け取っていいのか分からない。だが受け取りたい。受け取りたい自分がいる。

 夜十一時。

 「電話していい?」

 電話。

 電話だ。

 LINEの音声通話。人生で、姉貴とハローワーク以外に電話をしたことがない。

 「いいですよ」

 着信音が鳴った。

 出た。

 「もしもーし!」

 ——声だ。

 女性の声だ。高い。明るい。少し甘い。

 「あ、もしもし」

 「うわ、声低い! いい声!」

 いい声。声を褒められたのは生まれて初めてだ。

 「そ、そうですか」

 「敬語やめてよ笑 タメでいいよ」

 タメ口。十五歳年下にタメ口で話す。違和感がある。だがリナがそう言うなら。

 「じゃあ……そうする」

 「うん! そっちのほうがいい!」

 電話は二時間続いた。

 ゲームの話。アニメの話。仕事のリナはコンビニでバイトをしている。猫の話(実家で飼っていたが、一人暮らしで飼えない)。

 リナはよく喋った。俺が聞く側になることが多かった。だがそれが楽だった。俺が話題を作る必要がない。リナが勝手に話して、俺が相づちを打って、リナがまた話す。

 「そういえば時田さんって彼女いたことある?」

 「……ない」

 「えーうそ! まじで?」

 「まじで」

 「四十年間?」

 「四十年間」

 沈黙。初めてリナが黙った。

 「……ごめん、引いた?」

 「引いてない。逆にすごいなって。四十年間一人でいられるのって、強くない?」

 強い。

 強いのか。

 弱いから一人だったのだと思っていた。人と関われないから一人だったのだと。

 リナは「強い」と言った。

 嘘かもしれない。お世辞かもしれない。

 だが——嬉しかった。

 午前一時。電話を切った。

 布団に入った。

 眠剤を——

 飲まなかった。

 飲まなくても、目蓋が重い。体が温かい。二時間誰かと話した後の、体の温度が残っている。

 誰かの声が耳に残っている。リナの「おやすみー!」が耳に残っている。

 目を閉じた。

 三十分後、眠れた。

 ——翌日から、毎晩電話した。

 リナから電話が来る。毎晩十一時。二時間話す。午前一時に切る。「おやすみ」を言う。布団に入る。眠れる。

 眠剤を飲まなくなった。

 一週間、飲まなかった。

 二週間、飲まなかった。

 夜の天井を見なくなった。天井を見る前にリナの声が来るから。天井の染みを数える前に「おやすみ」が来るから。

 ——薬より効く。

 メンタルクリニックの先生にもらった眠剤より、リナの電話の方が効く。

 薬は脳の化学反応を変えて眠くする。リナの声は、脳の別の場所を温めて安心させる。安心すると眠れる。不安が消えるのではない。不安の音量が下がるのだ。

 先生は「車のバッテリーと同じです」と言った。リナは充電器だ。毎晩二時間、充電している。

 ——会おう、と言ったのはリナだった。

 「ねえ、会いたい。今週の土曜日空いてる?」

 「空いてる」

 「じゃあ会おう! 私が場所決めるね」

 リナが場所を決めた。駅前のショッピングモール。フードコートで昼飯を食って、ゲーセンに行って、プリクラを撮ろうと。

 プリクラ。

 四十歳がプリクラを撮るのか。

 撮った。

 リナは写真より可愛かった。小柄で、髪がふわふわしていて、よく笑った。目が大きい。声が高い。動きが多い。常に何かを触っている。ストローを回す。髪を触る。スマホケースの角を弄る。

 フードコートでラーメンを食った。リナは半分残した。「多い」と言った。俺が残りをもらった。

 ゲーセンでUFOキャッチャーをやった。リナが「あのぬいぐるみほしい」と言った。三百円で取れなかった。さらに三百円。取れなかった。さらに三百円。取れなかった。

 千二百円使ったところでリナが「もういいよ笑」と言った。

 ——プリクラを撮った。

 小さな箱の中に二人で入った。至近距離だ。リナの髪が俺の肩に触れた。シャンプーの匂いがした。

 画面にカウントダウンが表示された。三、二、一。

 リナがピースをした。俺もピースをした。ぎこちないピースだ。

 撮れた写真を見た。

 加工された二人が映っている。目が大きくなっている。肌が白くなっている。俺の顔も若返っている。

 リナが笑った。「盛れてるね笑」

 盛れている。実物より良く映っている。だが二人で映っている写真は、盛れていても嬉しい。

 ——帰り道。

 ショッピングモールの出口を出た。駅に向かって歩いた。

 リナが、俺の手を掴んだ。

 左手を。

 指を絡めて。

 ——止まった。

 足が止まった。心臓が止まった。世界が止まった。

 手だ。手を握られている。

 四十年間、家族以外の人間に手を握られたことがない。

 リナの手は小さかった。温かかった。少し湿っていた。

 「え」

 「ダメ?」

 「ダメじゃない」

 「じゃあ繋いでて」

 繋いだ。駅まで。五分間。

 五分間、手を繋いで歩いた。

 周りの人間が見ている気がした。四十歳の男と二十五歳の女が手を繋いで歩いている。見ている人は誰もいなかったかもしれない。だが見られている気がした。見られていても構わなかった。

 駅の改札の前で、リナが言った。

 「ねえ、時田さん——浩平さんって呼んでいい?」

 「いい」

 「浩平さん。付き合って」

 ——付き合って。

 リナから。

 リナの方から言った。

 「……いいの?」

 「いいから言ってるんだけど笑」

 「……うん」

 うん。

 うんと言った。

 四十歳にして、人生初の彼女ができた。

 改札をくぐるリナの後ろ姿を見送った。

 リナが振り返って手を振った。

 手を振り返した。

 改札を出た。

 ——勝った。

 勝った、と思った。

 株で負けた。マチアプで全滅した。ドタキャンされた。友達どまりだった。

 だが今日、勝った。

 彼女ができた。四十年かかったが、彼女ができた。

 帰りの電車で窓に映る自分の顔を見た。

 笑っていた。

 練習した笑顔ではない。勝手に出てきた笑顔だ。口角が上がっている。目が細くなっている。

 笑顔の練習は要らなかった。嬉しい時は勝手に笑うのだ。

 それを知らなかった。四十年間、知らなかった。

 ——付き合い始めて、二週間が経った。

 毎晩の電話は続いていた。週末には会った。二回目はリナの家に行った。ワンルーム。六畳。猫のぬいぐるみが大量にある部屋だった。

 リナの部屋で一緒にソシャゲをやった。並んで座って、同じイベントを回した。肩が触れていた。

 三回目のデートもリナの部屋だった。

 その日、リナと寝た。

 四十年間の童貞を、リナの六畳のワンルームで失った。

 何をどうすればいいか分からなかった。知識はあった。ネットがある。二十年間ネットにいた男だ。映像も画像もいくらでも見てきた。

 だが知識と実際は違った。

 画面の中の行為と、目の前に人間がいる行為は、まったく別のものだった。

 リナの体温があった。リナの呼吸があった。リナの声があった。画面にはない情報が、全方向から来た。

 上手くはなかった。たぶん、相当に下手だった。

 終わった後、リナが笑った。

 「緊張してたでしょ」

 「……した」

 「分かる笑 ガチガチだった」

 恥ずかしかった。だが恥ずかしさより、安堵の方が大きかった。

 終わった。四十年間抱えていた「したことがない」が、終わった。

 童貞であることは、俺にとって「ステータス異常」だった。呪いのデバフだ。いつ解除されるか分からないデバフが、四十年間ついていた。

 解除された。

 特別な何かが起きたわけではない。世界が変わったわけではない。

 だが「したことがない」が「したことがある」に変わった。その差は大きい。

 リナの隣で天井を見た。

 リナの部屋の天井は、俺の部屋の天井と同じくらい古かった。だが隣に人がいる天井は、一人で見る天井とはまったく違うものだった。

 リナが俺の腕に頭を乗せた。重かった。温かかった。

 「浩平さん」

 「ん」

 「また来てね」

 「——うん」

 帰りの電車で、窓に映る自分の顔を見た。

 笑ってはいなかった。

 だが、穏やかだった。今まで見たことのない顔だった。

 ——その夜。

 布団に入った。

 リナからLINE。

 「今日楽しかった! 付き合ってくれてありがとう。おやすみ、浩平さん」

 「おやすみ」

 眠剤の袋を見た。

 テーブルの上に置いてある。エスゾピクロン。二週間分。まだ残っている。最近ずっと飲んでいない。

 飲まなくても眠れる。リナがいるから。

 おやすみと言ってくれる人がいるから。

 薬より効く。

 ——本当にそうだろうか。

 薬は毎日同じ量で、同じ効果がある。

 人は、そうではない。

 人は気まぐれだ。人は変わる。人は消える。マキさんは消えた。退会して消えた。

 リナも消えるかもしれない。

 消えたら——眠れなくなる。

 薬なら消えない。処方箋をもらえば、また手に入る。

 人は、処方箋では手に入らない。

 ——考えすぎだ。

 今日は勝ったのだ。考えすぎるな。

 目を閉じた。リナの手の温度を思い出しながら、眠りに落ちた。

   残金:1,019,589円

   (内訳:証券口座14万円 + 銀行83万9,589円 + NISA9万円 ※NISA評価額+5,800円)

   ※収入:Uber Eats +55,000円(デートの日は配達休み)

   ※収入:求職者支援給付金 +100,000円(残り1回)

   ※収入:メルカリせどり +25,000円

   ※食費:約16,000円

   ※ガソリン代:約6,000円

   ※光熱費:約14,000円(春)

   ※通信費:約11,500円

   ※国民健康保険:約1,500円

   ※ジム月額:約7,800円

   ※プロテイン:約3,200円

   ※メンタルクリニック再診:約1,500円(先生に「最近眠れてます」と報告)

   ※眠剤:0円(処方あるが飲んでいない。在庫あり)

   ※マチアプ月額:約3,700円(彼女できたが退会は保留)

   ※デート費:ラーメン(2人分)1,800円 + ゲーセン1,200円 + プリクラ400円 = 3,400円

   ※NISA積立:−30,000円(6回目)

   ★給付金ラスト1回。来月から収入大幅減★

   ★眠剤服用:0回(3週間連続ゼロ)。リナの電話が代替★

   ★LINE友達:4人。人生初の彼女★

   ★訓練校修了まであと数日。長谷川さんは泣くだろうか★

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