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第20話 空席


 土曜日が来た。

 朝六時に目が覚めた。眠剤を飲んで寝たのに六時に起きた。デートは午後二時だ。八時間ある。

 八時間で何を準備すればいい。

 攻略記事は読んだ。「初デートの持ち物チェックリスト」を三つのサイトで確認した。ハンカチ。ティッシュ。ミントタブレット。充電器。現金。

 ハンカチは持っていなかった。百均で買った。白い無地。「柄物は主張が強い」と攻略記事に書いてあった。

 ミントタブレット。コンビニで買った。フリスク。口臭対策だ。自分の口臭が分からない。二十年間、至近距離で人と話したことがない。自分の息がどんな匂いか、確認する方法を知らない。

 手のひらに息を吹きかけた。

 分からない。何の匂いもしない気がする。だがそれは鼻が慣れているだけかもしれない。

 フリスクを三粒食った。舌がしびれた。

 服。ユニクロのMサイズ。白シャツに紺のチノパン。マチアプの写真と同じ服だ。写真と違う服で行ったら詐欺になる。

 靴。

 ——靴。

 靴のことを考えていなかった。

 玄関を見た。ボロボロのスニーカーが一足ある。Uber Eatsで走り回って、底がすり減ったやつだ。右足の小指のあたりに穴が開きかけている。

 攻略記事に「靴は必ず見られる」と書いてあった。

 もう買いに行く時間がない。午後二時まであと六時間だが、靴を買いに行ったら戻る時間が——いや、ある。駅前のABCマートは十時に開く。買って帰って、一時に家を出れば間に合う。

 十時にABCマートに行った。白いスニーカーを買った。四千九百九十円。高い。だが穴の開いた靴でデートに行く方が高くつく。何が高くつくのか分からないが、高くつく気がする。

 新品のスニーカーを履いた。足が白い。まぶしい。

 十二時。昼飯を食った。食い過ぎないようにした。カフェでコーヒーを頼む予定だ。腹が膨れているとコーヒーが飲めないかもしれない。コーヒーが飲めないとどうなるか分からないが、飲めた方がいい気がする。

 十三時。家を出た。

 電車に乗った。

 電車の中で、スマホを何度も確認した。マキさんからの最終メッセージ。「土曜日、〇〇駅の△△カフェで14時に(^^)」。

 来る。来るはずだ。向こうから誘ってきたのだ。来ないわけがない。

 十三時四十五分。〇〇駅に着いた。

 △△カフェを探した。駅から歩いて三分。ガラス張りの小さなカフェだ。中に木のテーブルが六つ見える。

 十三時五十分。早すぎる。十分前に着くのが正解だと攻略記事に書いてあった。今は二十分前だ。十分前になるまで外で待った。

 十三時五十五分。入った。

 二人掛けのテーブルを選んだ。窓際。攻略記事に「窓際は自然光で顔がきれいに見える」と書いてあった。

 座った。

 メニューを見た。コーヒー四百五十円。カフェラテ五百二十円。紅茶四百八十円。パンケーキ八百八十円。

 頼まずに待った。相手が来てから一緒に頼むのがマナーだと攻略記事に書いてあった。

 十四時。

 来ない。

 まだ十四時ぴったりだ。一分や二分の遅刻は普通だ。普通がどの程度か知らないが、普通だろう。

 十四時五分。

 来ない。

 スマホを見た。LINEは交換していない。マチアプのメッセージ欄を開いた。新着なし。

 メッセージを送った。

 「着きました! 窓際の席にいます」

 既読がつかない。

 十四時十分。

 既読がつかない。来ない。

 十四時十五分。

 店員が水を持ってきた。

 「ご注文はお決まりですか?」

 「あ、もう少し待ちます。人を待ってるので」

 「かしこまりました」

 店員が去った。

 十四時二十分。

 既読がつかない。来ない。

 十四時三十分。

 来ない。

 もう一通送った。

 「大丈夫ですか? 何かあったらお気軽に連絡ください」

 既読がつかない。

 十四時四十五分。

 店員がもう一度来た。

 「ご注文、いかがいたしましょう」

 「……コーヒーを」

 「ホットとアイス、どちらになさいますか」

 「ホットで」

 コーヒーが来た。四百五十円。

 一人で飲んだ。

 向かいの椅子は空いている。空席だ。

 十五時。

 一時間経った。

 来ない。来ないし、既読もつかない。

 ——ドタキャンだ。

 ドタキャンという言葉は知っていた。知識としては知っていた。だが自分がされる側になるとは思わなかった。

 向こうから誘ってきたのだ。「お茶でもしませんか」と言ったのは向こうだ。日時を決めたのも向こうだ。場所を指定したのも向こうだ。

 なのに来ない。

 なぜだ。

 ——なぜ、と問うても答えは出ない。相手の中に理由がある。その理由は俺には見えない。

 ゲームなら理由が分かる。マッチングに失敗したら「サーバーエラー」か「接続不良」か「メンテナンス中」と表示される。理由が画面に出る。

 リアルには理由が表示されない。

 ただ空席があるだけだ。

 コーヒーを飲み終わった。カップの底に茶色い液体が少しだけ残っている。

 立ち上がった。会計した。四百五十円。

 店を出た。

 外は三月の風が吹いていた。少し暖かくなり始めた風だ。新品のスニーカーが白くまぶしい。

 帰りの電車で、マキさんのプロフィールを開いた。

 ——消えていた。

 プロフィールが表示されない。「退会済みのユーザーです」と書いてある。

 退会。アプリから消えた。

 メッセージの履歴も消えた。十五通のやり取りが全部消えた。スタバレの話も、RPGの話も、「お茶しませんか」も。

 全部消えた。

 ——セーブデータが飛んだのと同じだ。

 百時間遊んだゲームのセーブデータが飛ぶ。あの喪失感と同じだ。いや、違う。ゲームは自分が操作ミスでデータを飛ばす。今回は相手が消した。相手が自分の意思で、俺とのデータを消した。

 新品のスニーカーで帰宅した。ハンカチは使わなかった。フリスクは三粒無駄になった。靴代四千九百九十円が残った。

 ——その夜、村瀬に報告した。LINEで。

 「ドタキャンされた。退会してた」

 「あーあ」

 「あーあって」

 「マチアプではよくある。気にすんな。業者の可能性もある」

 業者。

 マキさんが業者だった可能性。十五通のゲームの会話が、業者のマニュアルだった可能性。

 それは考えたくない。だが否定もできない。

 「次行け。立ち止まるな」

 次。

 次がある。

 ゲーマーは一回の全滅で折れない。次がある限り、折れない。

 ——二週間後。二人目のデート。

 相手は「ユミ」さん。三十歳。事務職。趣味は「カフェ巡りとヨガ」。ゲームはやらない。だがメッセージのやり取りは五通続いた。五通続いたら会う。これが攻略記事のセオリーだ。

 今回は俺から誘った。「よかったらお茶でもしませんか」。攻略記事の例文そのままだ。

 「いいですよ(^^)」と返ってきた。

 場所は前回と同じカフェにした。一度行った場所なら迷わない。メニューも分かる。ホットコーヒーが四百五十円だということも分かっている。

 ——来た。

 十四時ちょうどに、女性が入ってきた。キョロキョロしている。俺を探している。

 手を挙げた。

 向こうが気づいた。近づいてきた。

 「時田さんですか?」

 「はい。ユミさん?」

 「はい。はじめまして」

 座った。対面に座った。

 ——人間だ。

 写真ではなく、人間がいる。目の前に。向かいの席に。前回空席だった椅子に、人間が座っている。

 マキさんの時は空席だった。今は人がいる。

 それだけで心臓が跳ねた。

 「えっと——」

 「あ——」

 同時に喋り始めて、同時に止まった。

 沈黙。

 三秒の沈黙が、三十秒に感じた。

 「すみません、どうぞ」

 「いえ、時田さんからどうぞ」

 「えっと……今日は来てくれてありがとうございます」

 「いえ、こちらこそ」

 沈黙。

 メッセージでは言葉が出た。画面越しなら考える時間がある。打って、読み返して、修正して、送れる。

 対面には、その時間がない。

 言葉を打つ場所がない。口から直接出さないといけない。口から直接出す言葉は、修正できない。送信取り消しができない。

 「何頼みますか?」

 「カフェラテにします」

 「じゃあ僕もカフェラテで」

 カフェラテ。五百二十円。コーヒーより七十円高い。だが相手と同じものを頼めば話題になるかもしれないと思った。ならなかった。

 カフェラテが来た。

 飲んだ。

 「おいしいですね」

 「そうですね」

 沈黙。

 ——攻略記事に書いてあった話題を思い出せ。

 「休日の過ごし方」「仕事の話」「出身地」「食べ物の好み」「最近ハマっていること」。

 「ユミさんは、普段はどんなお仕事を?」

 「事務です。普通の事務で」

 「そうなんですね。大変ですか」

 「まあ、普通です」

 沈黙。

 面接だ。また面接をやっている。村瀬に「面接するな」と言われたのに、面接をやっている。

 自分の話をしろ。村瀬がそう言った。

 「あの、僕は最近ジムに通ってて——」

 「あ、プロフに書いてましたね」

 「はい。プールで泳ぐのが好きで」

 「へえ。すごいですね」

 「いや、全然すごくなくて。最初は二十五メートルも泳げなかったんですよ」

 「そうなんですか」

 沈黙。

 「すごいですね」の後が続かない。「すごいですね」は会話の終点だ。そこから先に道がない。

 ゲームの話をしたい。だがユミさんはゲームをやらない。プロフィールに書いてなかった。

 三十分が経った。

 カフェラテは半分残っている。会話も半分しか成立していない。

 「時田さんって、休みの日は他に何してるんですか?」

 ユミさんが聞いてきた。向こうも会話を探している。

 「えっと、料理とか——自炊をちょっと」

 「何作るんですか」

 「鶏むねともやし炒めとか——」

 言った瞬間、後悔した。鶏むねともやし炒め。デートの場で言う料理ではない。

 「あ、あとパスタとか」

 パスタは作ったことがない。嘘を言った。

 「パスタいいですね。何パスタですか?」

 「え、えっと……ペペロンチーノとか」

 ペペロンチーノ。唯一名前を知っているパスタだ。作り方は知らない。

 「ペペロンチーノ作れるんですか。すごい」

 またすごいだ。すごくない。作れない。嘘だ。嘘を重ねている。

 一時間後、デートが終わった。

 「今日はありがとうございました」

 「こちらこそ。じゃあ——」

 「また、よかったら——」

 「はい。また」

 別れた。

 帰りの電車で、メッセージが来た。

 「今日はありがとうございました! 時田さん、とても誠実な方だなと思いました。ただ、正直に言うと、恋愛の感じはちょっと違うかなと思いました。ごめんなさい」

 誠実な方。

 恋愛の感じは違う。

 誠実だが恋愛対象ではない。

 ——分かる。分かるのだ。一時間話して、俺自身が感じていた。会話が弾まない。共通の話題がない。沈黙が多い。嘘をついた。

 嘘をついた時点で、たぶん終わっていた。

 「こちらこそありがとうございました。正直に言ってくれて嬉しいです」

 嬉しくはない。だがそう書くのがマナーだろうと思った。

 ——三人目。三月中旬。

 「サキ」さん。三十五歳。デザイナー。趣味は「アニメと散歩」。

 アニメ。

 アニメならゲームに近い。共通言語がある可能性がある。

 メッセージでアニメの話をした。俺もアニメは見る。ゲーム原作のアニメはだいたい見ている。

 会話が弾んだ。十通以上続いた。

 会った。

 今回はカフェではなく、ファミレスにした。カフェは「おしゃれな場所でおしゃれな会話をしなければならない」という圧がある。ファミレスにはその圧がない。ドリンクバーがある。お代わりし放題だ。金銭的にも安全だ。

 サキさんは、写真より少し太っていた。だがそんなことはどうでもいい。俺も写真より老けているはずだ。お互い様だ。

 「はじめまして。時田です」

 「サキです。よろしくお願いします」

 座った。ドリンクバーを取りに行った。ウーロン茶にした。

 「メッセージで話してた、ゲーム原作のアニメの——」

 サキさんが先に話を振ってきた。

 俺の口から言葉が出た。

 出た。

 マキさんとのメッセージで指が止まらなかったのと同じだ。アニメとゲームの話をしている時、俺の口は動く。脳が考える前に、口が動く。

 一時間半、話した。

 ゲーム原作アニメの話。原作と改変の話。声優の話。ソシャゲの話。推しキャラの話。

 サキさんも話した。サキさんは俺より詳しかった。声優の名前を全部覚えていた。俺は覚えていない。キャラは覚えているが声優は覚えていない。

 「時田さんって、オタクですよね」

 「——はい」

 「私もです。オタク同士だと楽ですよね」

 楽だ。確かに楽だ。カフェの沈黙とは違う。ファミレスのドリンクバーを三回お代わりして、一時間半が三十分に感じた。

 帰り際、サキさんが言った。

 「時田さんと話すの楽しかったです。また会いたい」

 心臓が跳ねた。

 「僕もです。ぜひ」

 「——ただ」

 ただ。

 「友達として、なんですけど」

 友達として。

 「時田さんって、話しやすいし、趣味合うし、いい人だなって思うんですけど——恋愛としてはちょっと違うかなって。ごめんなさい」

 二人目と同じ言葉だ。

 「いい人」「恋愛としては違う」。

 テンプレートなのかもしれない。断る時のテンプレートが世の中にはあって、全員がそれを使うのかもしれない。

 「友達としてでも全然嬉しいです」

 嘘ではなかった。

 友達。

 友達が増えるなら、それでもいい。LINE友達が二人しかいない男にとって、三人目が「友達として」でも十分だ。

 LINE交換した。

 サキさんが三人目のLINE友達になった。正確には四人目だ。姉貴、Uberサポート、村瀬、サキさん。人間は三人。

 三人。

 半年前のゼロから、三人。

 ——帰宅して、布団に入った。

 眠剤を飲んだ。

 三人とデートした。一人目はドタキャン。二人目は沈黙。三人目は友達。

 恋愛の成果はゼロだ。

 だが経験値は溜まった。

 一人目で学んだこと。来ない相手もいる。それはバグではなく仕様だ。

 二人目で学んだこと。共通言語がない相手とは、対面でも会話が死ぬ。嘘はバレなくても自分が苦しい。

 三人目で学んだこと。共通言語がある相手とは楽しく話せる。だが楽しいだけでは恋愛にならない。恋愛には「楽しい」の先にある何かが要る。

 その「何か」が何なのか、まだ分からない。

 分からないが、三回やって三回分の情報を得た。

 ゲームで言えば、ボスの行動パターンを三回分記録した。まだ攻略はできていないが、データは溜まっている。

 データが溜まれば、いつか攻略できる。

 ——たぶん。

   残金:1,030,839円

   (内訳:証券口座13万6,000円 + 銀行85万4,839円 + NISA9万円 ※NISA評価額+4,100円)

   ※収入:Uber Eats +58,000円

   ※収入:求職者支援給付金 +100,000円

   ※収入:メルカリせどり +22,000円

   ※食費:約16,000円

   ※ガソリン代:約6,000円

   ※光熱費:約16,000円(春が近い)

   ※通信費:約11,500円

   ※国民健康保険:約1,500円

   ※ジム月額:約7,800円

   ※プロテイン:約3,200円

   ※メンタルクリニック再診:約1,500円

   ※眠剤:約600円

   ※マチアプ月額:約3,700円

   ※NISA積立:−30,000円(5回目)

   ※デート関連費:

    1回目 カフェ(一人分)450円 + 靴4,990円 + ハンカチ110円 + フリスク200円

    2回目 カフェ(二人分)1,040円

    3回目 ファミレス(二人分)960円

    計 7,750円

   ★デート費は控えめ。だが靴代が痛い★

   ★戦績:デート3回。ドタキャン1、お断り1、友達1★

   ★恋愛成果:ゼロ。経験値:3回分。LINE友達:3人に増加★

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