第16話 フリーズ
一月三日。
目が覚めた。
天井を見ている。天井の染みを見ている。この染みは二十年前からある。雨漏りの跡だ。中学の時、台風の後にできた。
起きなければいけない。
体が動かない。
重い。体が重い。筋肉痛ではない。昨日は何もしていない。一昨日も何もしていない。元旦も何もしていなかった。
訓練校は正月休みだ。ジムも正月は休館日が多い。Uberは正月の注文が少ない。やることがない。
やることがないと、体が思い出す。
二十年間、「やることがない」状態で生きてきた体だ。二十年間の習慣が、五ヶ月で消えるわけがない。「やることがない」と判断した瞬間に、体が二十年間のデフォルトモードに戻ろうとする。
布団から出るな。PCの前に座れ。ゲームを起動しろ。それが正常な状態だと体が言っている。
——フリーズだ。
ゲームのフリーズ。画面が固まる。入力を受け付けない。電源は入っている。画面は映っている。だが何も動かない。
俺の体が、フリーズしている。
電源は入っている。意識はある。天井の染みが見えている。だが指が動かない。布団を蹴る気力がない。
スマホが枕元にある。
手を伸ばした。それだけで息が切れた。五ヶ月前のコンビニの時と同じだ。あの時は体力がなかった。今は体力はある。ジムで泳いでいる。マシンで押している。プロテインを飲んでいる。
体力の問題ではない。
MPが切れている。
HPは満タンだ。体は健康だ。体重は十二キロ落ちた。血圧も少し下がった。だがMPがゼロだ。精神力がゼロ。
スマホの画面を見た。
一月三日、午前十一時十二分。
LINEの通知が一件ある。
村瀬だ。
——村瀬誠。三十八歳。訓練校の同期だ。
席が斜め前で、最初の一ヶ月は一度も話さなかった。向こうも話しかけてこなかった。俺と同じで、人と話すのが苦手なのかと思った。
違った。
苦手なのではなく、話す気がなかった。
村瀬は中堅の機械部品メーカーに十二年いた。営業部。成績は悪くなかった。だが三年前に離婚して、酒量が増えて、遅刻が増えて、最後は退職勧奨だった。退職勧奨というのは「辞めろ」と言われることだと、後で教わった。
訓練校には失業保険の延長目的で来ていた。村瀬は俺と違って失業保険がある。会社員だったから。十二年分の雇用保険が効いている。
最初に話したのは十月だ。Excelの授業で、俺がおばちゃん——長谷川さんにSUMIFを教えていた時に、村瀬が横から言った。
「教えんの上手いな」
振り向いた。目が合った。
「え」
「俺、十二年営業やってたけど、人にもの教えんのは苦手だった。あんた上手いよ」
返事ができなかった。「ありがとうございます」とも「そんなことないです」とも言えなかった。黙ってしまった。
村瀬は気にしなかった。翌日も斜め前の席に座って、たまにこっちを見た。
模擬面接の日に、変わった。
俺がWoWのギルドマスター経験を語って教室が凍った日。笑い声が上がった日。
休憩時間に村瀬が来た。
「WoWって、あのWoWか。俺もやってた」
「——え」
「Ashbringer鯖。人間のパラディン。レイド組んでなかったから、ギルドマスターはやったことないけど」
世界が一瞬ぐらついた。
訓練校に、WoWプレイヤーがいた。
斜め前の席に。十月から十一月まで、毎日顔を合わせていた男が、同じゲームをやっていた。
「いつまでやってた?」
「Cataclysmの途中で辞めた。嫁に『ゲームか私か選べ』って言われて」
「どっち選んだんですか」
「嫁を選んだ。結果、三年後に離婚した」
笑っていいのか分からなかった。村瀬が先に笑った。それで俺も笑った。
それからだ。昼休みに話すようになった。ゲームの話だけだ。仕事の話はしない。過去の話もしない。WoWとFF14とソシャゲの話を、五十分の昼休みにする。
LINE交換は十一月だった。村瀬が「飯行く時連絡するわ」と言って、スマホを差し出してきた。QRコードを読み取った。人生で三人目のLINE友達だ。一人目は姉貴。二人目はUberのサポート。三人目が村瀬。
——そのLINEが来ている。
「明日から訓練再開だけど生きてる?」
一月三日の午前九時に送られている。二時間前だ。
生きている。生きてはいる。
だが動けない。動けないことを、どう伝えればいい。「動けません」と打てばいいのか。何がどう動けないのか、自分でも分からないのに。
ゲームなら「AFK」と打てばいい。Away From Keyboard。席を離れています。
だが俺は席から離れていない。キーボードの前にいる。いるのに動けない。
AFKではなく、フリーズだ。
返信を打った。
「生きてる」
三文字。三文字打つのに二分かかった。
村瀬から返信が来た。
「明日9時な。遅刻すんなよ」
——遅刻すんなよ。
遅刻するな、ということは、来ることが前提だ。来ないという選択肢がない。
会社員が十二年染み込んでいる男の言い方だ。行くのが当たり前。行かないという選択肢は存在しない。
俺にはその感覚がない。
二十年間、「行かない」が選択肢の一位だった。行かないことが正常で、行くことが異常だった。
だが今は違う。
「行かない」を選ぶと、給付金が止まる。月十万が消える。ハローワークの後藤さんに連絡が行く。
金の問題じゃない。
いや、金の問題でもある。だがそれだけじゃない。
行かないと——五ヶ月が消える。
五ヶ月かけて積み上げたものが、一日で消える。ゲームのセーブデータが飛ぶのと同じだ。
ゲームなら、セーブデータが飛んだら二度とやらない。そういうゲーマーは多い。百時間のデータが消えたら、もう一度百時間やる気力はない。
俺の五ヶ月は、百時間どころではない。毎日だ。毎日、起きて、着替えて、外に出て、人と会って、金を稼いで、飯を作って、運動して、寝た。
それを全部巻き戻すのか。
嫌だ。
嫌だという感情が、フリーズした体を一ミリだけ動かした。
布団を蹴った。
——一月四日。訓練校。
教室に入った。
長谷川さんが手を振った。
長谷川典子。五十六歳。子供が独立して、再就職のために訓練校に来ている。席が俺の右隣で、最初の授業からずっと俺にExcelの操作を聞いてくる人だ。
「あら時田さん、明けましておめでとう!」
「……おめでとうございます」
声がかすれていた。三日間、誰とも話していなかった。
「お正月何してたの?」
「何も」
「何もって。お雑煮は?」
「食べてないです」
長谷川さんが顔をしかめた。
「あんた、お雑煮食べてないの。ちょっと待って」
鞄をごそごそやって、タッパーを出した。
「はい。黒豆。余っちゃったから」
タッパーの蓋を開けた。黒い豆が甘い匂いを放っている。
「正月に余った黒豆を持ってくるおばちゃん」は、どこの職場にもいるのかもしれない。俺は職場を知らないから分からない。だがいるとしたら、こういう人だ。
「ありがとうございます」
「お餅もあるわよ。レンジでチンすれば食べられるから」
ラップに包まれた切り餅が二個出てきた。
「長谷川さん、いつもすみません」
「いいのよ。あんた、痩せたわねぇ。秋よりだいぶ顔がシュッとしたわ」
秋よりシュッとした。十二キロ落ちた。
昼休みに長谷川さんの黒豆を食った。甘かった。母さんの黒豆とは味が違う。当たり前だ。人が違う。
だが甘い黒豆を食っている間、フリーズが少し解けた気がした。
村瀬が隣に座った。弁当を広げている。コンビニの幕の内弁当だ。
「おう。生きてたな」
「生きてた」
「正月何してた」
「何も。布団にいた」
村瀬がペットボトルのお茶を飲んだ。
「俺も」
「え」
「何もしてない。布団にいた。三日間」
村瀬が幕の内弁当のエビフライを箸で持ち上げた。
「離婚してから毎年こうだ。正月がきつい。盆もきつい。世間が『家族のイベント』をやる時期がきつい」
「……分かります」
分かる。分かるのだ。
クリスマスイブに他人のチキンを運んでいた。大晦日に一人で蕎麦を茹でた。正月は布団から出られなかった。
「会社にいた頃は正月なんて気にならなかった。帰る場所があったから。家族がいたから。一人になると、正月の三日間が地獄なんだよ」
村瀬が淡々と言った。
「ゲームで言うとさ」
「ゲームで言うと?」
「正月はサーバーメンテだ。クエストもレイドもギルチャも全部止まる。三日間やることがゼロになると、手が勝手にデスクトップの別のアイコンを探すんだよ。二十年やり込んだやつを」
村瀬が笑った。
「あんた、何でもゲームで喩えるな」
「それしか知らないから」
「知ってるよ。俺と違って、株もUberもメルカリもやってんだろ」
村瀬は知っている。昼休みに話した。俺が何をやってきたか。全部ではないが、だいたい。
「やってても、ダメな時はダメです」
「だろうな」
村瀬がエビフライを食った。
「俺は十二年会社にいて、毎日決まった時間に出社してた。それが普通だった。辞めてから分かった。あれは普通じゃなかった。毎朝決まった時間に起きて、電車に乗って、八時間働いて帰る。あれを自分の力でやってたと思ってたけど、違う。会社が俺を動かしてたんだ」
「……」
「辞めた瞬間に止まった。体が。今あんたが言った、フリーズってやつだ。俺は半年止まった。毎日酒飲んで寝てた」
半年。俺の正月は三日だ。村瀬は半年だった。
「どうやって動いたんですか」
「ハローワークに行った。行くしかなかった。金がなくなったから」
金。
結局、金だ。
「あんたもそうだろ。訓練校に来てるのは、給付金のためだろ」
「……最初は」
「最初は?」
「最初は、給付金のためでした。でも今は——」
今は。
今は、何だ。
教室を見た。長谷川さんがタッパーの黒豆を別の受講生にも配っている。若い女性が「おいしい」と言っている。窓の外は灰色の冬空だ。
「——今は、ここに来ないと止まるから。来てるから動ける。止まると、戻る。二十年前に。だから来る」
村瀬が頷いた。
「同じだよ。俺も同じ。一人だと止まる。ここに来ると動ける。それでいいんだよ。理由なんか後からつく」
理由は後からつく。
ゲームでもそうだ。最初は「なんとなく」始めたゲームが、やっているうちに理由ができる。ギルドメンバーとの約束。イベントの締め切り。ランキングの維持。
訓練校も同じだ。最初は給付金のために来た。今は、来ないと止まるから来ている。
長谷川さんがいるから来ている。村瀬がいるから来ている。後藤さんが待っているから行っている。
一人では動けない。
一人では動けないことを認めるのに、四十年かかった。
——午後の授業が終わった。
帰り道、自転車を漕ぎながら考えた。
正月の三日間、俺は止まった。フリーズした。
だが今日、動いた。
動けたのは村瀬のLINEがあったからだ。「明日9時な」の一言があったからだ。
あのLINEがなかったら。
あのLINEがなかったら、俺は今日も布団にいたかもしれない。
もしかしたら明日も。明後日も。
そしてそのまま、二十年前に戻っていたかもしれない。
フリーズは再起動すれば直る。だがフリーズが長引くと、データが壊れる。長すぎるフリーズは故障と同じだ。
村瀬のLINEは、Ctrl+Alt+Deleteだったのかもしれない。
三日で済んだ。今回は三日で済んだ。
次に来た時も、三日で済むとは限らない。
——だから止まらない仕組みが要る。
ゲームにはデイリークエストがある。毎日ログインして、毎日やるタスクがある。やらないと報酬がもらえない。やらないとランクが下がる。
リアルにもデイリークエストを作ればいい。
毎日やること。毎日行く場所。毎日会う人。
訓練校はあと三ヶ月で終わる。終わったら、デイリークエストが消える。
その前に、訓練校の外にデイリークエストを作らないといけない。
ジムはある。Uberはある。
だが人がいない。
ジムにプールのおじさんはいるが、名前も知らない。マシンエリアの教えたがりおじさんもいるが、それだけだ。
訓練校が終わっても残る人間関係を、今のうちに作らないといけない。
——作り方が分からない。
四十年間、友達の作り方を知らないまま来た。
だが村瀬とは友達になれた。ゲームの話をしただけだ。同じゲームをやっていただけだ。
同じゲームをやっていた。それだけで繋がれた。
二十年間ゲームしかしてこなかった。それが弱みだと思っていた。
だがゲームをやっていた人間は、世の中に大勢いる。そいつらとは繋がれる。
ゲームが共通言語だ。ゲームが、俺の唯一のコミュニケーションツールだ。
帰宅して、ジムに行った。正月休み明けで再開していた。
プールで泳いだ。二十五メートル。壁で休んで、二十五メートル。
プールのおじさんはいなかった。正月明けはまだ来ていないらしい。
一人で五百メートル泳いだ。
水の中は静かだ。水の中では何も考えなくていい。腕を動かして、息を吸って、吐いて、進む。それだけだ。
プールから上がった時、体が軽かった。
フリーズが解けている。完全にではない。まだどこかに重さが残っている。たぶん、この重さは消えない。五ヶ月やそこらでは消えない。
二十年分の重さだ。
だが今日は動けた。明日も動く。明後日も。
一日ずつ、デイリークエストをこなす。
——問題は、夜だ。
昼は動ける。訓練校がある。ジムがある。Uberがある。人がいる。
夜、家に帰ると、誰もいない。
二十年間、夜に誰もいないことは当たり前だった。家族は下の階にいたが、俺は部屋から出なかった。壁一枚隔てて、誰かがいた。テレビの音が聞こえた。母さんが台所で何かしている音が聞こえた。姉貴が風呂に入る音が聞こえた。
音があった。
今は何もない。
自分が立てる音しかない。自分の足音。自分がコップを置く音。自分が布団に入る音。
それ以外は、無音だ。
布団に入った。
眠れない。
体は疲れている。プールで五百メートル泳いだ。筋肉は休みたがっている。だが脳が止まらない。
訓練校はあと三ヶ月で終わる。終わったら給付金が止まる。月十万がゼロになる。
Uberとせどりで月十五万くらいは稼いでいる。だが給付金がなくなったら、月の収入が十万減る。しかもNISAに月三万入れている。残りの十二万で家賃なしとはいえ、光熱費と通信費とジムと食費を回すと、ほぼ何も残らない。
回るか。
回るか?
Excelが頭の中で動く。訓練校で鍛えた脳が、布団の中で勝手に計算を始める。
収入。支出。差額。来月。再来月。半年後。
半年後、金が足りなくなったら。
一年後、まだ何も見つからなかったら。
二年後——四十二歳になっている。四十二歳で職歴なし。
四十二。
会社員は四十二で課長になったり部長になったりしている。同い年の人間が会議室で予算の話をしている頃、俺はブックオフの百十円棚を漁っている。
比べるな。比べても意味がない。分かっている。
分かっているが、夜の脳は分かっているを無視する。
時計を見た。午前二時十七分。
目を閉じた。閉じても暗闇の中で数字が回る。
午前三時四十分。まだ起きている。
午前四時。窓の外がうっすら明るくなり始めた。
——眠れないまま朝が来るのは、引きこもり時代と同じだ。
あの頃は逆だった。朝まで起きているのが日常で、昼に寝ていた。今は昼に動いて、夜に眠れない。パターンが反転しただけで、結果は同じだ。
朝になった。体が重い。寝ていないから当然だ。
訓練校に行った。授業中に意識が飛びそうになった。
その夜も眠れなかった。
翌日も。
三日目の夜、午前一時に布団の中でスマホを開いた。
「不眠 対処法」で検索した。
「寝る前にスマホを見るな」と書いてあった。今スマホを見ている。矛盾だ。
「カフェインを控えろ」。コーヒーは飲んでいない。プロテインのチョコ味にカフェインが入っているかは知らない。
「運動しろ」。している。プールで五百メートル泳いでいる。
「それでも眠れない場合は、心療内科を受診してください」。
心療内科。
メンタルクリニック。
——行くのか。精神科に。
精神科に行く人間は、壊れた人間だと思っていた。引きこもっている間、母さんが何度か「病院に行かない?」と言った。行かなかった。行く必要がないと思っていた。壊れていないと思っていた。
壊れていた。
二十年間引きこもっていた時点で、とっくに壊れていた。ただ壊れていることに気づかなかっただけだ。部屋から出なければ、壊れていても動く。壊れた車でも、駐車場に停めておけば問題ない。走り始めたから、壊れていることが分かった。
治験の時と同じだ。脂肪肝と高血圧は、検査して初めて分かった。体の中が壊れていることは、外から見えない。
頭の中も同じだ。
眠れないのは、頭の中が壊れているからだ。
——翌日、訓練校の昼休みに、村瀬に聞いた。
「村瀬さん、メンタルクリニックって行ったことある?」
村瀬がペットボトルのキャップを回しながら言った。
「ある。離婚の後。半年間通った」
「どうだった」
「薬もらった。眠剤。飲んだら寝れた。それだけだけど、寝れるのは大きい。寝れないと全部ダメになる」
「全部?」
「寝れないと判断力が落ちる。判断力が落ちると酒を飲む。酒を飲むと翌日動けない。動けないと自分を責める。責めると寝れない。無限ループだ」
無限ループ。
ゲーマーが最も恐れるバグだ。
「予約した方がいい?」
「予約なしで行ける所もある。駅前のビルに入ってるやつ。看板小さいから気づかないけど」
村瀬がスマホで検索して、クリニックの名前を教えてくれた。
その日の夕方、行った。
——駅前の雑居ビルの三階。エレベーターを降りたら、普通の待合室だった。
もっと暗い場所を想像していた。白い壁に蛍光灯。雑誌が置いてある。待っている人が三人いる。全員普通の人だ。サラリーマンらしき男。若い女性。おばさん。
問診票を書いた。
「眠れない」に丸をつけた。「不安が強い」に丸をつけた。「食欲はある」に丸をつけた。
先生は五十代の男だった。丸い眼鏡をかけている。
「いつ頃から眠れませんか」
「年明けから。一月三日くらいから」
「何か環境の変化は?」
環境の変化。
全部だ。五ヶ月前に家族がいなくなってから、全部が変わった。全部が変わりすぎて、何から言えばいいか分からない。
「……色々ありました」
先生は深追いしなかった。
「夜、布団に入って何を考えますか」
「お金のこと。将来のこと。このままでいいのかってこと」
「それは具体的な心配ですか。それとも漠然とした不安ですか」
「……両方です」
先生が頷いた。
「まず寝られるようにしましょう。寝られないと、不安を処理する力が回復しません。車のバッテリーと同じです。充電しないと走れない」
車のバッテリー。ゲームの喩えではないが、分かりやすい。
処方箋をもらった。
薬局で薬を受け取った。エスゾピクロン。眠剤だ。
「苦味が残ることがありますが、異常ではありません」と薬剤師が言った。
その夜、飲んだ。
三十分後、目蓋が重くなった。
自然に重くなるのではない。薬の力で重くなっている。それは分かる。だが重くなるなら何でもいい。自力だろうが薬だろうが、寝られるなら寝る。
リングフィットが「運動する道具」なら、眠剤は「寝る道具」だ。道具を使って何が悪い。ゲーマーは道具を使う生き物だ。
朝まで寝た。
七時間。途中で起きなかった。
——久しぶりに、朝の光で目が覚めた。
寝られた。それだけで世界が少し違う。Excelの計算が止まっている。将来の不安が消えたわけではないが、音量が下がっている。昨夜は100だった不安のボリュームが、40くらいになっている。
先生の言った通りだ。寝ると回復する。バッテリーが充電されると、走れる。
眠剤は毎日飲むものではないと言われた。「眠れない日に飲んでください。毎日飲むとだんだん効かなくなります」。
毎日は飲まない。眠れない日だけ飲む。週に二、三回。
それでいい。
——だが眠剤は不安を消さない。寝られるようにするだけだ。
不安の正体は分かっている。
金。仕事。将来。
それと——もう一つ。
夜、布団の中で、天井を見ている時。
考えるのは金のことだけではない。
隣に、誰もいない。
四十年間、隣に誰かがいたことがない。実家にいた頃は家族がいた。だが「隣」にいたわけではない。壁の向こうにいた。同じ空間にいたことがない。
村瀬とは昼に話す。長谷川さんとは授業中に会う。後藤さんとは月一で面談する。
全部、昼だ。
夜に話す相手がいない。
LINEを開いた。
友達リストを見た。
三人。
姉貴。Uberのサポート。村瀬。
Uberのサポートは人間ではない。自動応答だ。
実質二人。
二人。
半年前はゼロだった。ゼロが二になった。
二は奇跡だ。ゼロの人間にとって、二は奇跡だ。
だが二では足りない。
昼の二人では、夜の一人を埋められない。
——マッチングアプリ、というものがある。
ネットで見た。広告で見た。YouTubeの動画の前に流れてくる。「運命の出会いがここに」とか「三ヶ月で彼女ができた」とか。
嘘だと思っていた。
嘘だと思っているが、頭の隅に引っかかっている。
まだ早い。今の俺では無理だ。
写真。プロフィール。メッセージ。デート。全部、未知のダンジョンだ。レベルが足りない。装備が足りない。
だがいつかは行く。
いつかは行かないと、夜の天井を一人で見続けることになる。
——まだ行かない。だが、考え始めている。
スマホを閉じた。眠剤が効いている。
目を閉じた。
今日は寝られる。明日のことは、明日考える。
残金:1,022,109円
(内訳:証券口座12万8,000円 + 銀行86万4,109円 + NISA3万円)
※正月期間のため収入少:Uber +8,000円(3日間のみ稼働)
※メルカリせどり +6,000円(在庫消化のみ)
※食費:約9,000円(自炊中心。長谷川さんの黒豆+餅)
※光熱費:約8,000円(日割り)
※ジム月額:支払済(前月引き落とし)
※メンタルクリニック初診:約2,500円(保険適用3割)
※眠剤:約1,200円(2週間分)
※NISA:自動積立継続中
★残金微減。100万ラインは維持★
★フリーズ期間:3日。不眠は継続中。眠剤で対処★
★LINE友達:2人(姉貴・村瀬)。この数が、後に試される★




