化け物と呼ぶ声
◆騎士ガレン視点◆
私は三十年、剣で食ってきた男だ。戦の支度がどういうものかは、体で知っているつもりだった。
その私が今、八歳の子供の背中に、戦支度を教わっている。
「柵はここで折って、袋小路にする。イーロ、水路の板は合図のあと。先に外すと羊が落ちる」
殿下は村の見取り図に石を並べ、逃げ道を先に、隠れ場所を次に、戦う場所を最後に決めていく。老人と子供の避難順。炭焼き穴への水と毛布。そして笛の合図が三種類――長い音は「隠れろ」。短く二つは「動くな」。連続で鳴ったら「俺のことは待つな」。
勝つための戦ではない。死なせないための戦だ。あの支度を組める指揮官を、私は二人しか知らない。どちらも白髪の将だった。
昼、広場では妙な遊びが流行っていた。
「影踏みの逆、いくよ! 笛が鳴ったら、影から影へ! 一番早く物陰に転がれた子が優勝!」
子供らが笑いながら水桶の陰に転がり込む。母親たちは微笑ましく見ている。私は笑えなかった。あれは訓練だ。空襲の下で子供を生かす伏せ方を、恐怖ではなく遊びの回路で体に彫っている。恐怖で教えれば子は竦む。遊びで教えれば、体が勝手に動く。
――どこの戦場で覚えた、そんなことを。
口をきかない難民の娘、ニナも輪の外から見ていた。殿下は無理に誘わず、一度だけ娘の目の高さで笛を短く吹き、自分からころんと水桶の陰に転がってみせた。娘の口元が、わずかに緩んだ気がした。
西の羊小屋で三人を骨にした同じ手が、それをやるのだ。
「……なあ、騎士様よ。あれは、ほんとに人の子か」
夕方、村長の息子のブレンが声を潜めて言った。腕のいい石工だ。恩は認めている。それでも夜、あの顔を思い出すと眠れんのだと言う。
「化け物だろう、あれは」
二十歩先で、殿下の手元が一瞬だけ止まり、何事もなく動き出すのを、私は見た。
◇
その夜、来た。
最初に気づいたのは殿下だった。夕餉の匙を置き、天を仰ぐように目を閉じ――次の瞬間、笛が長く鳴った。
村が、教わったとおりに動いた。灯りが消える。戸が閉まる。子供らが遊びの速さで床下に転がる。私が槍杖を掴んで外へ出たときには、殿下はもう栗の木の枝の上にいた。
「二枚。地上に六人。……威力偵察だ。本気の前に、こっちの手札を数えに来た」
夜空に、星を欠けさせて滑る影が二つ。地を這う人影が、柵の袋小路へ吸い込まれていく。
それからの数十を、私は生涯忘れないだろう。
空で、雷が二度鳴った。
稲光はなかった。雲もなかった。ただ乾いた音が二つ、間を置いて響き、一枚目の翼が畑に落ち、二枚目が村の手前で折れて堕ちた。地上の六人は袋小路で足を止め、退き際に一人が水路の外れた板を踏み抜き、残りは柵を越えて夜に散った。
殿下は追わせなかった。笛が短く二つ――「動くな」。
終わってみれば、村側の傷は、水路に落ちた羊が一頭。それだけだった。
私は畑に転がった翼の骸を検分した。馬ほどもある魔獣が、眉間をただ一点、射抜かれていた。矢ではない。魔法の焦げ跡でもない。私の知るどの武器の傷でもない。
――雷が、狙って落ちるものか。
振り向くと、村人たちが家々の戸口から出てきていた。誰も歓声を上げなかった。皆、畑の骸と、栗の木から降りてくる小さな影とを、交互に見ていた。畏れと感謝が、まだ折り合いをつけられない顔で。
ブレンが、私の隣で長いこと骸を見下ろしていた。それから、吐き捨てるみたいに言った。
「……笛の合図。もういっぺん、最初から教えろ。若い衆全員に叩き込む」
石工の覚えは、悪くなかった。
◇
夜半、見回りの途中。殿下は栗の木の下で、膝を抱えて自分の右袖を見ていた。
何かを呟いていた。風の隙間で、二つだけ聞き取れた。
――ユリ。ミラ。
知らない名だ。だが、その名を呼ぶ声だけは知っていた。昼の指揮官の声でも、空へ雷を放つ者の声でもない。歳相応の、八歳の子供の声だった。
あれが何者なのか。その問いを、私はこの夜、永久に捨てた。三十年前、焼け跡から拾われた小僧が騎士になったように、名前のつかないものにも、なるべき形というものがある。
化け物かどうかは知らん。だが私は、子供を守る子供を、大人が寄ってたかって化け物と呼ぶ側には――断じて立たん。
夜明け前、殿下が木から降りてきて、東の空を見た。
「ガレン卿。偵察が二枚とも帰らなかった。敵はもう、こっちに『何かいる』と知ってる。なら次は、全部まとめて来る。数で、こっちの何かを磨り潰しに」
徹夜の顔で、しかし目だけは冴え冴えと。
「次の闇夜が、本番だ」
その掌の上では、もう、新しい雷が形になり始めていた。




