八歳の射線
夜通し歩いて、丘を一つ越えたら、ロゼンがあった。
朝靄の底に、石積みの家が三十ばかり。裏山の際まで段々の畑が這い上がり、放された羊が白い点々になって散らばっている。村の真ん中に井戸と、大きな栗の木。木陰に吊るされた誰かの洗濯物が、風でゆっくり揺れていた。
……いい村だ。
守る価値があるとかないとか、そういう帳簿の話じゃなく。ただ、朝の煙が上がって、鶏が鳴いて、人がちゃんと暮らしてる。俺が三年間、地下から思い出してた「いつか」が、そのまま置いてあるみたいな村だった。
隣で、マーサが足を止めていた。
「……変わっておりませんね。栗の木も、そのままで」
それだけ言って、また歩き出した。四十年ぶりの里帰りの感想は、以上らしい。侍女は皆、強い。
◇
村長は、日に焼けた皺だらけの老人だった。八歳の子供の「もうすぐ襲撃が来ます」を、当然、まともには取り合わなかった――マーサが名乗るまでは。
「マーサ? ……穀物屋のとこの、マーサか? 王都に出た?」
「村長のヨルグ坊やが、ずいぶん立派になられて」
「坊やはよせ! ……ほんとにマーサか。生きとったか」
老人二人はしばらく手を握り合っていた。それから村長は、俺をもう一度、今度はちゃんと見た。
「……で。襲撃、というのは」
「月のない夜。空から来ます。国境の向こうに、翼の魔獣の檻が六つ。狙いはこの村です。軍は来ません」
「なぜ、そこまで分かる」
「言えません。でも、賭けてもらうしかない。外れたら笑ってください。当たったら――備えた分だけ、人が死なずに済みます」
村長は長いこと俺の顔を見て、それからマーサを見た。マーサが頷いた。
「……裏山の炭焼き穴なら、年寄りと子供は入れる。若い衆には、儂から話す」
賭けてくれた。マーサの四十年が、俺の信用を立て替えてくれた。
◇
村の外れの一角に、見覚えのある顔ぶれがいた。砦の野営地から移された難民たちだ。継ぎ当ての天幕の代わりに、納屋の軒を借りて。
あの子もいた。ニナ。母親の裾を握って、相変わらず空を見ていた。
俺の偵察機が頭上を横切ったとき、あの子だけが、それに気づいて身を固くした。鳥じゃない影を、あの子の体は聞き分ける。……ごめんな。あれは俺の目だ。お前を怖がらせるための翼じゃないんだ。いつか、そう言えるといいけど。
◇
昼過ぎ、柵の補修を手伝っていたとき、それは来た。
「――西の羊小屋! 誰か来とる!」
見張りに立てた村の若者が叫んだ。俺は偵察機の目を振った。男が三人。旅装だが、歩幅が揃ってる。腰の得物の吊り方が揃ってる。羊番の少年イーロを囲んで、一人が少年の腕を掴み上げたところだった。
物盗りの偵察を装った、軍の先遣だ。村の備えと人数を、獲物の目方を量りに来た。
俺は柵を離れて、歩いた。走らない。走ると射線が跳ねる。
距離六十歩で、男の一人が俺に気づいた。子供と認めて、警戒を解いた。少年の腕を掴んだ男が、腰の得物に手をかけて、何かを言った。脅し文句だったんだろう。最後まで聞かなかった。
掌の中で、練成が終わっていた。
構える。息を半分吐く。
――ダン。
ダン。……ダン。
三つの音の間に、俺は二歩しか歩かなかった。
男たちは、順番に崩れて、動かなくなった。最初の一人は、自分に何が起きたか分からないままだったと思う。三人目だけが得物を抜きかけて、抜き終わる前に終わった。
風の音が戻ってくる。羊が、何事もなかったみたいに草を食んでいる。
俺は銃を魔力に還しながら、腰を抜かしたイーロに歩み寄って、腕の掴み跡を確かめた。骨は無事だ。
「立てる? 悪いけど、羊を全部、村の内側に入れて。それから村長に、『前倒しになるかもしれない』って」
「あ……あ……」
「大丈夫。もう終わった」
倒れた男の襟元で、金属の徽章が光っていた。黒い翼を象った、部隊章。拾って、懐に入れる。……覚えたぞ。お前らの主の紋だ。
斥候が戻らなければ、敵は警戒する。月を待たずに来るかもしれない。撃つ前の一瞬で、そこまで数えた。数えた上で、撃った。三日後の警戒より、今日のイーロの腕だ。順番の話なら、俺の順番は最初から決まってる。
「……殿下」
振り返ると、ガレン卿とマーサが立っていた。柵の方から、駆けつけてくれたらしい。二人とも、途中で足が止まっていた。
ガレン卿は、倒れた三人と、俺と、俺の空の掌を、順番に見た。戦場を知ってる目が、初めて、揺れていた。
「殿下は、今――」
「終わった話だ。次が来る前に、柵を直す」
俺は言って、歩き出した。二人の脇を抜けるとき、マーサの手が、何かを堪えるみたいに胸元を握っているのが見えた。
何も言われなかった。何も、訊かれなかった。
ただその日の夕方から、柵の修理を手伝う俺と村人たちの間に、うっすらと、一歩分の隙間ができた。誰も俺の隣で作業をしない。差し入れの水は、地面に置いて渡される。羊番のイーロだけが、遠くからずっと、俺を見ていた。助けられた顔と、怖がる顔の、ちょうど中間の顔で。
いいよ、それで。
怖がられるのは、掌の中に戦争を飼ってる奴の、正しい扱いだ。あんたたちはそのまま、戦争を知らない側にいてくれ。
――日が落ちる。
偵察機の目の先で、涸れ谷の灯りが、ざわりと動き始めていた。




