檻の破り方
二日目の夜、涸れ谷の灯りは五十を超えた。
三日目の夜、偵察機の目が檻を捉えた。荷馬車に載せた、布掛けの巨大な檻。数は六つ。布がめくれた一瞬、中で畳まれた翼が見えた。
そして谷の出口に、矢印みたいに積まれた資材の列は、まっすぐ西を向いていた。
街道じゃない。砦でもない。その先にあるのは、傘の外の――ロゼンだ。
月は、あと三日で消える。
◇
翌朝の砦の作戦室は、初めて緊張していた。俺は今日も「退屈した子供」として隅に転がされている。この転がり場所も、もう三日目で指定席だ。
「――斥候の報告は確実か」
「国境向こうに集結の兆候あり、規模不明。夜間の羽ばたき音の報告、複数」
「目標は」
「不明です。ですが、砦を直接叩く戦力とは思えません。であれば、狙いは例によって、守りの薄い集落かと」
司令官は地図を睨んで、長い息を吐いた。
「……全砦、警戒配備。守兵は砦に集約する」
「集約? 村々の巡回は」
「引き上げさせろ。兵力を割れば砦線が薄くなる。砦が抜かれれば街道が、街道が抜かれれば王都までの補給が死ぬ。……守るべき順番の話だ」
「お待ちください!」
声を上げたのは、ラウル兄上だった。
「ロゼンには難民を入れたばかりです! 老人と女子供が三百! 巡回まで引き上げれば、丸裸だ!」
「殿下。では伺いますが、ロゼンに兵を置いて砦線が抜かれた場合、その責を誰が取るのです」
「……っ」
「これは殿下の視察団の指揮権の外です。国境防衛条令に基づく、わたしの権限で決めます」
ラウル兄上は、拳を握って、下げた。この人は正しく怒れる人だ。そして、正しく怒って、それでも条令の前で止まる人だ。それが正規軍というもので、それ自体は間違ってない。
間違ってないから、村が死ぬ。
――祈っておけ、が二度目に言われたとき、俺はもう聞いていなかった。
頭の中で数えていたのは、別のものだ。手持ちの魔力量。偵察機の稼働数。ロゼンまでの距離、徒歩で半日。月が消えるまで、およそ七十時間。
足りるか? 分からない。でも、俺の武器庫は俺の掌で、掌は現場にしか持っていけない。糸の届かない場所は、俺の目も、俺の弾も、届かない。
……そういえば、なんでこの世界の奴らは練成で武器を作らないのか、二年目に調べたことがある。答えは単純だった。練成は魔力食いの燃費最悪属性で、剣を一本練る魔力で火球が二十発撃てる。だから職人の内職と、貴族の座興にしか使われない。合理的だ。
合理的な世界は、非合理を八年こね続けた馬鹿を、想定していない。
◇
その夜、俺は「熱を出した」。
頬を火照らせるくらい、練成の魔力を巡らせれば造作もない。医務官が額に触れて眉をひそめ、ラウル兄上が狼狽して、俺は砦の一室に隔離された。「明朝、症状が重ければ視察団は王都へ引き返す」――上等だ。朝には、この部屋は空だ。
寝台に枕を詰めて、窓枠に足をかけた、その時だった。
「……お薬の時間でございます、殿下」
扉の前に、マーサが立っていた。盆も薬も持たずに。
「マーサ。……あのね、これは」
「存じません。何も見ておりません」
マーサは静かに扉を閉めて、内側から鍵をかけた。それから、俺の顔をまっすぐに見た。
「ですが、行き先だけは存じております。……この三日、殿下は夜中に西ばかり見ておいでですから。侍女は、殿下の袖の擦り切れ場所で、殿下の夜歩きの距離を存じておりますから」
「…………」
「ロゼンで、ございましょう」
言い逃れを三通り用意して、三通りとも捨てた。この人には、通じない。
「……うん」
「では、わたくしがご案内いたします」
「は!? 駄目だよ! 危ないんだ、あそこはもうすぐ――」
「焼かれるのでございましょう」
マーサの声は、恐ろしく静かだった。
「先の戦のときも、そうでした。兵は砦に集められ、村は祈れと言われました。わたくしは王都で、それを手紙で知りました。……次の手紙は、来ませんでした」
繕い物をするときと同じ、几帳面な手つきで、マーサは旅装の紐を締めた。いつの間にか、俺の分の荷物まで括られていた。
「あの村の井戸の場所も、羊小屋の数も、裏山の抜け道も、わたくしが一番存じております。案内人はご入り用のはずです。――それとも殿下は、老いた侍女を置いて窓から逃げる薄情な方でございますか」
「……マーサって、実は強い?」
「侍女は皆、強うございます」
◇
砦の裏手、哨戒線の切れ目。三日計った巡回の間隙を、俺たちは音もなく抜けた――はずだった。
闇の中に、鎧が立っていた。
「……夜歩きのご趣味が」
ガレン卿。月の細い夜なのに、その声だけで背筋が伸びる。
「今度は星じゃ、誤魔化せないよね」
「はい」
騎士は一歩、進み出た。
「殿下を連れ戻すのが、私の役目です」
来た。ここが最後の関門だ。腕ずくは論外。買収も脅しも、この人には効かない。だから俺は、最初から一枚しか札を持ってない。本当のことという、一番危ない札だ。
「ロゼンが襲われる。月のない夜。国境の向こうに檻が六つ、翼の魔獣入りだ。軍は来ない。さっき作戦室で決まった。守るべき順番の話だそうだ」
「……なぜ、それを殿下が」
「僕には空に目がある。信じなくていい。三日後に結果で分かる。ただしその時には、マーサの故郷は灰だ」
ガレン卿は、長いこと黙っていた。闇の中で、鎧の音ひとつ立てなかった。
「……殿下。ひとつだけ伺います」
やがて、低い声が言った。
「勝算は、おありですか」
勝算。
八歳の子供と、老いた侍女と、掌の中の武器庫。相手は正規軍の襲撃部隊と、空飛ぶ魔獣が六つ。まともに数えたら、答えは決まってる。
「ない」
俺は言った。
「でも、届く算段ならある。僕はそれを八年こねてきた。……ガレン卿。あんたの役目は僕を連れ戻すことだ。なら僕を殴って、担いで帰れ。八歳児一人、簡単だろ」
息を吸う。
「――できないなら、ついてこい」
風が、涸れた草を鳴らした。
ガレン卿は、ゆっくりと兜の留め具を締めた。それから俺の前に片膝をついて、生真面目に、一礼した。
「王命と殿下の御身、天秤にかけるまでもございません。……ですが私は昔から、目の前の子供を見捨てる騎士に、なりたくてなった騎士ではないのです」
立ち上がった騎士は、西の闇を見た。
「参りましょう。夜明けまでに距離を稼ぎます」
三つの影が、哨戒線の外へ滑り出す。頭上を、俺の偵察機が音もなく追い越していった。細い月が、その羽根を一瞬だけ銀に光らせた。
月が消えるまで、あと三日。




