国境の子供たち
生まれて初めて城門をくぐった日、俺は馬車の窓に張り付いて、羊を十七頭まで数えた。
「はっはっは! そんなに珍しいか、羊が!」
「珍しい! でかい! もこもこ!」
半分は演技で、半分は本物だった。転生して八年、俺の世界は城壁の内側だけだった。麦畑が地平線まで続いて、風が渡って、空が広い。この世界は、ちゃんと綺麗だった。
護衛の騎士が、馬を寄せて窓の外から言った。
「殿下。あまり身を乗り出されませんよう」
ガレン卿。ラウル兄上の部下で、この視察の間、俺の守りを任された騎士だ。歳は三十絡み。無口で、無表情で、必要なことしか言わない。ただ、その目は絶えず動いている。街道の先、丘の稜線、林の影。
……この人は、景色を見てない。射線を見てる。
本物だ、と思った。この世界で初めて見る、「戦場を知ってる目」だった。
◇
三日目に、西方国境の第二砦に入った。
ラウル兄上が砦の司令官と会っている間、俺は「退屈した子供」として作戦室の隅に転がされていた。壁の大地図。国境線に沿って並ぶ砦の印。大人たちの会話は、拾い放題だった。
「――で、また出たのか」
「はっ。半月で三件。いずれも夜間、国境沿いの集落が。生き残りは口を揃えて『空から来た』と」
「翼ある魔獣、か。帝国は否定しているが」
「調教された獣です。統率されておりました。帝国の〈魔獣使い〉の噂は、もはや噂ではないかと」
空から来る。
俺は床に寝転んだまま、目だけで地図を追った。砦の配置は街道沿い。守っているのは交易路だ。砦と砦の間、傘の外に、ぽつぽつと村の印が置き去りにされている。
その一つに、見覚えのある名前があった。
――ロゼン。
「焼け出された連中の受け入れ先は」
「近隣で引き受けたのはロゼンだけです。あの村長は人が好い。もっとも、あそこ自体が砦の傘の外ですが」
「……予算も兵も回せん。祈っておけ」
祈っておけ。
この世界の軍も、そこは一緒か。
◇
四日目。砦の外の難民野営地に、ラウル兄上は物資を運ばせた。
「規則では砦の備蓄は動かせん! だから俺の視察団の食いもんが『余った』だけだ! いいな!」
兄上はそう怒鳴って、部下たちはにやりと笑って荷を降ろした。いい部隊だ。いい兄上だ。
俺は荷降ろしの脇で、野営地を見ていた。
焼かれた村の生き残り。継ぎの当たった天幕。炊き出しの列。並ぶ順番で揉めない程度に疲れた大人たち。そのどれもが、知っている光景だった。匂いまで一緒だ。煮出した薄い麦と、洗えない体と、燻った布の匂い。三年間、俺が浸かっていた匂い。
列の後ろの方に、兄妹がいた。
兄は十歳くらい。妹は五つか六つ。兄の椀に炊き出しが注がれ、妹の椀にも注がれる。二人は天幕の陰に並んで座った。妹がひとくち飲んで、言った。
「おいしいね」
「ああ、うまいな」
兄の椀は、もう空だった。注がれた半分を、座る前に妹の椀へ移していたのを、俺は見ていた。妹は気づいていない。兄は空の椀に口をつけて、飲む真似をしながら「うまいな」ともう一度言った。
「…………」
俺は自分の昼食の包みを見た。視察団の王子様用の、白いパンと干し肉と乾酪。
黙って、兄妹の前に置いた。
「え……あ、あの」
「余った」
それだけ言って、俺は歩き出した。兄が何か言う前に。妹が笑う前に。それ以上あの椀を見ていたら、俺は八歳の顔を保てなかった。
……ミラ。お前のスープはな、世界一じゃなかったよ。ほとんど白湯だった。
でもお前が「せかいいち」って言うたびに、俺は明日も削れる芋の皮を探せたんだ。ああいう嘘はな、飲んだ奴じゃなくて、言われた奴を生かすんだ。
だからあの兄貴も、明日を探せる。余計なことは、しない。
◇
野営地の外れで、俺は足を止めた。
小さな女の子が、母親の手を握って立っていた。五つくらい。喋らない。母親が名を呼んでも――ニナ、と呼んでいた――目も動かさない。
その子はただ、空を見ていた。
上空を鳥の影がよぎった瞬間、女の子の全身が、びくりと縮んだ。母親の後ろに隠れて、天幕の陰に体を押し込んで、両手で耳をふさぐ。鳥だよ、と母親が背中をさする。ただの鳥。もういないよ。大丈夫。大丈夫だからね。
……その反射を、俺は知っていた。
音を聞いたら物陰に転がる。影が差したら空を見ない、隠れる。ミラが三日で覚えて、二度と忘れなかったやつ。体に彫り込まれた戦争は、大丈夫の一言じゃ消えない。あの子はもう、鳥のいる空を、一生そのままでは見上げられない。
空から来る戦争が、この世界にもある。
なら、やることは決まってる。
◇
その夜、宿営の天幕を抜け出して、俺は丘に登った。ガレン卿の巡回の間隙は、三日かけて計ってあった。
掌に魔力を練る。今度のは、いつもの四枚羽じゃない。羽根を大きく、機体を軽く、目玉ひとつ分の映像を魔力の糸で俺に流す、滞空型の――偵察機。
夕闇に紛れる灰色に練り上げて、放つ。
羽音はほとんどしない。それは高く、高く昇って、国境の夜空に溶けた。魔力の糸の先から、眼下の景色がぽつりぽつりと流れ込んでくる。砦の灯り。街道。眠る野営地。そして傘の外の暗がりに沈む、小さな村々。
「――この空に、俺の目を置いていく」
誰にともなく、そう言った。
帝国が空から来るなら、先に空を取る。単純な話だ。
天幕に戻る途中、暗がりで声がした。
「……夜歩きのご趣味が?」
ガレン卿だった。巡回の間隙、三日分の計測は、どうやら無駄だったらしい。
「星! 星を見てた! 城より多いから!」
「左様ですか」
騎士は俺の顔をしばらく見て、それ以上、何も訊かなかった。ただ、天幕まで三歩後ろをついてきて、別れ際にひとことだけ言った。
「殿下。星は、丘の上より天幕の中から数えるものです。……この国境では」
――この人、どこまで見てたんだろうな。
◇
真夜中。天幕の寝床で、俺は目を開けたまま、魔力の糸の先に意識を澄ませていた。
偵察機は高度を保ったまま、国境の縁を流している。糸の届く範囲は、体感でせいぜい二里。それより離れると映像が千切れ、無理に繋げば頭の芯が焼ける。八年の試作で確立した目は、まだ俺の掌の届く空しか見られない。
それでも、十分だった。
流れ込む夜景の隅。国境の向こう側、道もない涸れ谷の底に――灯りの列があった。
野営の焚き火じゃない。覆いを掛けた、漏れることを恥じてるみたいな灯が、二十、三十。谷に沿って、きれいに間隔を空けて並んでいる。あれは規律だ。軍隊の灯りだ。
数えている途中で、映像の上端を、影がよぎった。
鳥。
……にしては、大きすぎる翼が、月を横切った。
影は国境を越えて、こちら側へ滑り込んでくる。高度を落とし、大きく旋回して――針路の先にあるのは、砦じゃない。眠っている、難民の野営地だ。
偵察だ。獲物の目方を、空から量りに来た。
あの野営地の天幕の数、焚き火の数、逃げ足の遅い年寄りと子供の数。あの翼は今夜、それを全部持ち帰る。次に来るときは、量った分だけの牙を連れて。
――鳥の影に縮んだ、ニナの背中を思い出した。
俺は寝床を抜け出した。今夜二度目の夜歩きだ。ガレン卿に見つかったら、今度は星じゃ済まない。分かってる。分かった上で、丘に登った。
撃てば、敵は偵察の翼を一枚失う。警戒して、計画を早めるかもしれない。撃たなければ、野営地は精密な獲物台帳に載る。天秤は、一瞬で傾いた。台帳に載るのは、空の椀で飲む真似をした、あの兄妹だ。
掌の中で、練成が終わる。夜目に馴染んだ、八年ぶりの相棒。
滞空する偵察機の目と、丘の上の俺の目。二つの視界を重ねる。影の旋回は正確で、律儀で――だから、読める。次にあの雲の切れ間へ戻ってくる。
息を半分吐いて、止める。
――ダン。
一つだけの雷が、月のない側の空で鳴った。
翼の影が、傾いだ。羽ばたきが乱れ、高度が溶けるように落ちて、国境の涸れ谷の縁に、音もなく吸い込まれていった。
野営地で、犬が二、三度吠えた。歩哨が空を見上げ、何も見つけられず、「雷か?」と首をかしげて戻っていく。それきり、夜は静かになった。
誰も知らない。この世界の空で、たった今、最初の一機が落とされたことを。
俺は銃を魔力に還して、細い月を見上げた。半分より痩せた月。灯りの列は、まだ谷底で息を潜めている。奴らの夜は、確実に近づいてくる。
……いいよ。来い。
俺の戦争は、たぶん、この夜に始まった。




