三番目の椅子
王家の晩餐は、銀器が触れ合う音でできている。
長すぎる食卓。父上は上座で、書類を片手に食事を進める。国王陛下の食卓での発言は、平均して一晩に三言。俺が数えた限りでは。
「――で、だ。ヴィルフリート」
今夜の一言目は、父上ではなく、アルノルト兄上から来た。
「中庭で何かを『浮かべた』と聞いた。マーサとかいう侍女が、腰を抜かしていたそうだな」
来た。
あの日から六日。報告が上がるまでの時間としては、まあ妥当なところだ。むしろ遅い。兄上のことだから、裏を取ってから切り出したんだろう。
「浮かべたよ! 泥団子!」
俺はフォークを置いて、胸を張った。
「八年こねてたやつ、ついに飛んだの! ふわーって!」
「ほう。見せてみろ」
即答だった。試されてる。断れば疑いが残る。見せれば――見せ方次第だ。
「いいよ! えっとね」
掌に魔力を練る。飴色の塊。胴体、四本の腕、四枚の羽根――までは同じ。ただし羽根の曲率を、わざと一枚だけ狂わせる。重心も三ミリずらす。八年分の失敗作の中から、「三百二個目」を正確に再現する。
羽根が回る。機体がよろよろと浮き上がり、食卓の上を千鳥足で飛んで、傾いて、回転して――ラウル兄上のスープに、頭から突っ込んだ。
沈黙。
「……ぶっ、はっはっはっは!!」
最初に噴き出したのは、スープを浴びた当人だった。第二王子ラウル。十六歳。騎士団で鍛えた肩を揺らして、涙まで流して笑っている。
「飛んだ! 確かに飛んだぞヴィル! 俺のスープまでだがな!」
「うう……六日前はもっと飛んだのに……」
「はっはっは! 八年でスープまでか! よし、あと八年こねれば俺の頭に届くな!」
ラウル兄上が俺の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。俺はしょんぼりした顔で、スープから失敗作を回収した。
アルノルト兄上だけが、笑っていなかった。
「……浮遊の練成か。曲芸としては面白いが、それだけだな」
「それだけってなにさ! すごいんだよこれ!」
「ああ、すごいすごい。――父上、食事中に失礼しました」
父上は書類から目を上げず、二言目を発した。
「ほどほどにな」
以上。王家の団欒、終了。
……前世の食卓は、白湯みたいなスープが一つと、蝋燭が一本だった。それでもユリの朗読があって、ミラの「せかいいち」があって、あの狭い地下は、ここの百倍うるさくて、百倍あたたかかった。
銀器の音を聞きながら、俺は三百二個目をポケットにしまった。
……ごめんな。お前は囮に使うために、わざと下手に生まれてもらった。
◇
食後、廊下でラウル兄上に捕まった。正確には、脇に抱えられた。
「ヴィル! 兄と風呂に入るぞ! スープの礼だ!」
「礼の意味がおかしい!」
ラウル兄上は、王家で一番単純にできている人だ。剣が好きで、部下が好きで、飯が好きで、弟の俺のことも、たぶん本当に好きでいてくれる。
「なあヴィル。アルノルト兄上の言うことは気にすんな」
湯気の向こうで、兄上は柄にもなく静かな声を出した。
「兄上はな、王になる人だから、何でも『使えるか使えないか』で見ちまうんだ。だがな、俺は思うぞ。お前はそのままでいい。泥団子こねて、旗の数を間違えて、笑ってろ。……この城じゃ、それが一番の贅沢だ」
「…………うん」
いい人だ。本当に、いい人なんだ、この兄上は。
だから俺は、この人の前でだけは、演技が少しだけ演技じゃなくなる。それが計算なのか本音なのか、俺自身にも、もう分からない。
◇
翌日の午後。俺の部屋で、マーサが繕い物をしていた。
俺の右袖だ。井戸の縄梯子で、また擦り切らせた。マーサは「殿下は袖ばかり傷めます」とぼやきながら、几帳面な針を進める。
「マーサはさ、どこの生まれなの」
なんとなく訊いた。本当に、なんとなくだった。
「国境でございますよ。西の。ロゼンという、小さな村でした」
針は止まらない。
「畑と、羊と、あとは何もない村で。……先の戦のとき、わたくしだけ、王都に奉公に出ておりました」
「わたくしだけ」の意味を、訊き返せる人間はいない。俺は黙っていた。マーサも、それ以上は言わなかった。糸を切る音だけがした。
「はい、できました。……まったく、王子様の袖がこんなに働き者では、針が足りません」
マーサは繕い終えた袖を撫でつけて、それから、俺の机の上――ずらりと並んだ泥団子の失敗作たちを見て、ふっと目元を緩めた。
「でも、ようございます。殿下が泥団子をこねている間は、平和でございますね」
「…………」
平和。
平和なわけ、あるか。
俺は毎晩、井戸の底で戦争の続きをこねてる。あんたの故郷みたいな村がまた焼かれる日のために、殺しに来る側の音を、この掌で飼ってる。あんたが繕ってくれるこの袖は、縄梯子で擦り切れて、いつか血で汚れる。
――言えるわけが、ない。
「……うん。平和がいちばん」
俺は、八歳の顔で笑った。マーサも笑った。
窓の外で、平和な午後の鐘が鳴っていた。
◇
その平和は、夕方に破られた。
ノックもなしに扉が開いて、ラウル兄上が顔を出した。
「ヴィル! 聞け、兄は明後日から国境の視察だ! 西方国境線、砦を三つ回る!」
「へえ! いいなあ」
「だろう! ――で、だ」
兄上はにやりと笑って、親指で自分を指した。
「お前も来い。父上の許可はもぎ取った。『弟に外の世界を見せてやりたい』と言ったらな。……お前、城から出たことないだろう。羊でも見て、うまい物でも食え」
西方国境。
マーサの針の音が、頭の中で蘇る。ロゼンという、小さな村。畑と、羊と、あとは何もない村。
――行ける。この足で、国境が見られる。
「行く! 行く行く! 羊見る!」
飛び跳ねてみせる俺の後ろで、マーサが「まあ」と口元を押さえていた。
廊下の奥から、その騒ぎを一瞥して通り過ぎる影があった。
アルノルト兄上は、何も言わなかった。
ただ、俺が「行く」と言った瞬間だけ、足を止めた気がした。




