7.魚釣りのルイ少年
宮廷医カレンにとって、あの夜の出来事は胸に強く刻まれた。
分厚い医学書を全て頭に叩き込む用に日々勉強し、医療学校で実技を磨いて。
何百時間も勉強し主席で卒業したその努力が、毒を受けた傭兵を救い感謝されたことで、満たされた気がした。
「カレン、あの軟膏塗ったらニキビ治ったわ、ありがとう!」
「よかったですね、クロエお嬢様」
これで舞踏会に行くのも恥ずかしくないわ、と上機嫌に笑いかけてくるクロエ王女姿を見るのも、確かに嬉しいが。
(やはり、あの街で困ってる人たちを救いたい)
シャンデリアにステンドグラス、赤い絨毯に大理石。
絢爛豪華な宮廷からはそう遠く無いのに、かけ離れた、飢えと貧困と犯罪の巣窟。
それでも、あのギルドの人たちの笑顔を見たら、また行きたいと思ってしまった。
(宮廷は副業禁止かつ、夜間外出禁止だから……二重の違反だ。バレないように一層、気をつけなきゃ)
昼は医師の名誉でもある宮廷医師として、王族たちの健康管理をするカレン。
そして夜は、暗黒街の『猫の足跡』で、無報酬で治療する闇医者のミア。
二つの顔と名前を持つ彼女は、今日も定時が終われば外へ行こうと考えていた。
夜の帷が降り、広い宮廷内もしんと静寂が訪れる。
カレンは窓からゆっくりと外へ降り、人目を掻い潜って小走りに駆けていく。
そして今日も、暗黒街で唯一灯りをつけて営業をしている、『猫の足跡』の扉を叩いた。
「やあ、闇医者の先生。こんばんは」
青髪に眼帯姿の店長、ラシッドが手を挙げて陽気に挨拶をしてくれた。
カウンターには先日毒を受けた大柄な傭兵が座っていたので、早速傷の様子を見せてもらうことに。
紫に変色をしていた皮膚はすっかり通常の色に戻り、傷はまだ残ってはいるが毒は解毒剤によって完全に除染されたようだ。
「先生の言うとおり、朝方熱が出たが店長が優しく看病してくれて、今は下がったよ」
強面の傭兵がニヤリと笑って言うと、
「うちのお得意さんに死なれたら、商売上がったりだからね。おでこに冷たい布置いてあげたよ。偉いだろ?」
と照れ隠しでグラスを拭きながら店長が肩をすくめる。
「ありがとうございます。熱が出るのは良くなっている証拠なので、下がればほぼ完治ですね」
傷口を再び消毒し、念のためまた神聖樹の根の薬を塗り、包帯を新しいものに変えるカレン。
「当分は魔獣狩りの依頼はやめて、肉体労働以外のものを受注してください。右腕はなるべく安静に」
「そんなんじゃあなまっちまうよ。筋トレはしてもいい?」
屈強な傭兵は、病み上がりだと言うのに鍛えたいと渋い顔をするので、
「下半身なら許可しましょう。軽く息が上がる程度のスクワットをしてくださいね」
と、有無を言わさぬ笑顔で、カレンが微笑む。
「そうかい、ミア先生は厳しいな」
夜の暗黒街での偽名であるミアという名を呼び、傭兵と店長は顔を見合わせて笑っていた。
そうして傭兵は何度もとカレンに礼を言うと、ギルドを後に去っていった。
(毒を受けたと聞いた時はどうなるか心配してたけど、あの様子じゃ大丈夫そうね。普段から鍛えている人は治りも早いわ)
カレンは傭兵の後ろ姿を見送りながら、かかりつけ医としてやるべきことはやったと胸を撫で下ろしていた。
すると、傭兵と入れ違いで、背の低い少年がギルドの扉を開けて入ってきた。
「こんばんは! お魚もってきたよ」
とことこと歩いてきたのは、赤毛で目の大きい十歳ぐらいの男の子だ。
手には網を持っており、中にはまだ生きていて動いている川魚がたくさん入っている。
店の食事用の魚を依頼しているのだろう。店長は魚の入った網を少年から受け取ると、数枚の金貨と共にポケットの中から出した棒キャンディも一緒に手渡した。
「いつもありがとうなルイ。これはおまけだ」
「わぁい! ありがとう店長!」
おまけでもらったそのキャンディに目をキラキラと輝かせながら、ルイと呼ばれた少年は笑顔になった。
キャンディの包み紙を開け口に含むと、カレンの隣のカウンター席に腰掛けた。背が低いので、足が地に付かずぶらぶらと揺れている。
「子供なのに、こんな遅い時間には危ないよ」
月が高く上がり、夜も深い時間だ。このくらいの歳の子なら、もう眠りについている頃合い。
カレンはお節介かなと思いながらも、心配してルイに言うと、
「大丈夫だよ。それに、『暗黒街』ではこのギルドだけが明かりついてるし、強い人がいっぱいいて一番安心だから」
甘いキャンディを頬張りながら、ルイは屈託のない笑顔で返事をする。
たまたま今は他に客がいないが、確かにこのギルドは依頼を受注する傭兵や剣士、荒くれ者がいつもいる。
「そう。お父さんとお母さんは心配しない?」
何の気なしにカレンが尋ねると、
「お父さんは会ったことないから知らない。お母さん、は……」
棒キャンディを握りしめたルイが、次第に表情を曇らせ、母親を思い出しているのか言葉を途切れさせて俯いていた。
しまった、とカレンは慌てて取り繕う。
「ご、ごめんね。もう話さなくていいから。あ、ほら、ジュース飲む?」
闇医者をやる代わりに無償で提供してもらった、まだ口をつける前のオレンジジュースをすかさず少年に差し出すと、
「うん!」
と再び笑顔に戻って、美味しそうにそのジュースを飲み出した。
(いけない。色んな生まれや環境の子がいるんだ。家族の話は注意しなきゃ……)
治安が悪く、魔獣の発生も多いこの街では、色んな事情で親と過ごせない子供もいるのだろう。
没落貴族とはいえ、自分はやはり貴族の生まれで、恵まれた環境に今までいたのだと、身を引き締める。




