2、完璧な宰相
「ふう……今日の仕事はこれでおしまいかな」
回診を終えた後、部下たちに各々お持ち場に戻るように伝え、一人で報告書を書いたカレンは一息ついた。
廊下の窓から宮廷の外の晴れ晴れとした空を眺めながら、白衣を着た肩を伸ばす。
時計を見るとまだ昼過ぎだが、宮廷医としての一日の仕事は終わってしまった。
このあとは薬を調合したりと、急病人が出た時のために待機するだけ。
レザンヌ王国は穏健派かつ中立国で、戦争とは比較的無縁な国だ。
その中心にある王都の宮廷の中には、皇族や貴族たちが住んでいるが、正直怪我人や病人などほとんど出ない。
週に一度、丁寧に一部屋ずつ宮廷に住まう人に体調を尋ねるのだが、
「最近目尻の皺が気になるの、皺取りのクリームをまた配合して頂戴」
と香水の香りを漂わせた妙齢の王妃様からはそう命じられ、
「書類仕事ばかりで肩こりがひどい、湿布をまたくれるかい」
と、自分の肩を叩く老齢の大臣からお願いをされた。
本人たちからしたら悩みの種なのだろうし、そんな悩みを解決するのが宮廷医のカレンの仕事ではあるのだが。
(もっと、磨いてきた医療の知識や腕を生かして、本当に困ってる人たちを救いたいな)
医療従事者としての悩みが、常に頭の中に浮かんでしまう。
私、このままでいいのかしら、と。
(でも、宮廷医なんて出世街道まっしぐらの名誉職よ。
実家に仕送りもできるし、待遇や福利厚生には全く不満はないんだけどね)
カレンの家は元々、宝石商を営む裕福な伯爵家だったが、隣の国で金脈が見つかり、上質な金が手に入るようになって以降、宝石は下火となり両親の代には没落貴族となり果ててしまった。
手元にあった宝石を全て売り払っても負債を返せず、豪華な屋敷も調度品もすべて差し押さえられ、カレンは幼い頃から小さな家で両親と質素な暮らしをしていたのだ。
このままでは駄目だと、幼いカレンは必死に勉強し、医療学校に学費免除の特待生として入学。
六年間常に成績トップかつ品行方正だったため首席で卒業、一番の名誉と言われる宮廷医に就職したのである。
少しでも家計の足しになればと、貧乏ながら全力で応援してくれた両親たちに給与の半分は仕送りをしている。そのため、やすやすと転職することはできない。
世間体も良く、給与も良く、宮廷内の人たちも気のいい人ばかりだ。
しかし。
(平和なことはいいことだけど、こうも医者としての出番がないのも退屈ね……)
窓の外を見つめながら、贅沢な悩みに思いを馳せてしまう。
一人思索にふけっていたら、廊下ですれ違った侍女たちの会話が耳に入ってきた。
「ねえ、城下でまた争いごとがあったらしいわよ」
「ああ、噂の『暗黒街』でしょう?
治安が悪くて嫌ね。怪我人も出たみたい」
その単語に、カレンはハッと我に返る。
「怪我人が……」
そう呟き、再び窓の外を眺めた。
宮廷から眺めて数里先、歩くと数十分の距離だろう。
そこには、『暗黒街』と呼ばれる街があった。
大きな川が近いため、そこを渡ってきた隣国からの流れ者や、その日暮らしの傭兵、浮浪者も多い。
皆が疑心暗鬼で住んでおり、いつ寝首を掻かれるかわからないため、夜に明かりをつけずに息をひそめて眠りにつく街。
そのため呼ばれるようになった名前が『暗黒街』――。
怪我人が多数いるという言葉が、頭の片隅から離れない。
(苦しむ人を救いたい。そこに階級や身分は関係ないわ)
自らも没落した伯爵家で育ったため、貴族出身とはいえ、カレンにとって貧しい人たちは他人事とは思えないのであった。
「あ、見て。ヴィンス宰相よ!」
暗黒街を眺めて複雑な気持ちを抱えていたカレンの耳に、見知った声が聞こえてきた。
おしゃべりな侍女たちが噂していたのは、今まさに廊下の端から歩いてきた、ヴィンスという名の若き宰相だ。
「城の修繕費の資料はまとめました。早急に煉瓦職人を集めるように。
また舞踏会に必要な食事の手配と守衛隊の配備の方も段取りをしたので、抜かりないよう」
「承知いたしました」
横に控えていた側近の部下に仕事の内容を伝えると、部下は一礼をして足早に執務室に戻っていった。
高い背、黒髪に黒目。
宰相のみが着ることが許されている群青の執務服を着て、ヴィンス宰相は背筋を伸ばして規律良く歩いてくる。
宮廷内で法を司る最高位、宰相の位置に立つのは良き血筋と頭脳が必要なのだが、彼は平民の出でありながら法務学校で歴代一位の成績を取り、鳴り物入りで宮廷入りし、三年間で名宰相として確固たる地位を確立している優秀な人だ。
その物腰柔らかな態度だけでなく、すっと通った高い鼻に真っ直ぐな瞳、眉目秀麗なところが、女性たちから密かな人気を博している。
コツコツ、と革靴の音を鳴らしながら凛と歩くヴィンス宰相に、廊下の端に避けながらカレンは会釈をする。
「あ、あの、ヴィンス宰相は今度の舞踏会行かれるのですか……?」
「一緒に踊る方などはいらっしゃるのでしょうか?」
先程噂話をしていた侍女たちはヴィンス宰相のファンなのだろう。頬を紅く染めながら、おずおずと質問をしている。
しかし、先程までカレンに対して微笑んでいた口元を結び、
「業務に関係のないことは、業務時間内にお話しできません。失礼」
と冷たく言い放ち、どちらとも返事をせずにそのまま歩き、廊下の奥へと去って行ってしまった。
侍女たちはお互い視線を合わせ、熱っぽいため息をつく。
「はーあ、顔良し、頭良し、給料良しのヴィンス宰相だけど、難攻不落よね……」
「私生活がまるで不明だもんね。
あの見た目じゃ恋人がいてもおかしくないけど、お忙しいから作らないのかしら」
と恋愛の噂話をしながら、自分たちの持ち場へと戻っていった。
(ヴィンス宰相、とんでもなく頭が切れるし柔和な人だけど、どこか掴みどころのない方よね……)
常に凛としているようにも見え、どこか寂しそうにも見える、不思議な男性だ。
しかし、窓の外の先、またカレンの思考は暗黒街の現状でいっぱいになってしまった。
昼過ぎにはほとんどの仕事が終わってしまい、めったに怪我人も病人も出ない、王都の宮廷。
高貴な人々による非現実的な豪華な世界が、カレンにはどこか、鳥かごの中のように窮屈に感じてしまうのだった。




