第三十八話 帰ってこいというならそっちが来い
どれくらい湯船に浸かったか分からない。少し頭がボーっとしてこれ以上は危険と判断し上がろうとすると肩にぴとっとしっとりと濡れた髪がくっついてきた。
「おい海原、俺もう出るからお前も無理しないうちに......」
声をかけてくっついてきた頭を引き離そうとした瞬間、海原の体が前へと倒れ、ドボーン! という音をたてて水面へと倒れた。
「海原? 海原!? おい! しっかりしろ!」
「先輩......目がぁ......」
「なんで早く言わねぇんだお前は!」
「だって......」
「いいから! 喋るな」
海原の体をお姫様抱っこの形で持ち上げ脱衣所へと急ぐ。海原の体に巻いていたタオルがないとかそんなことはどうでもいい。今は海原を涼しい場所へと連れていくのが最優先。
脱衣所へと戻った俺は乾いたタオルを海原に巻いて水分をとった。更に、別のハンドタオルを引き出しから出して水で濡らした。
「冷たい......気持ちいい」
「まったく......心配させやがって。しばらくそのまま安静にしてろ」
床に海原を寝かせたまま、俺は湯船に浮かぶタオルを取りに行った。
持ったタオルは熱く、これに体を巻かれていたなら俺より早くのぼせるのも納得が出来る。
別に先に上がってもよかったのに。
「母さん。海原がのぼせた」
「対処は?」
「取り敢えず脱衣所に寝かせて濡れタオルを被せてある。あと任せていい?」
「ええ。龍輝も風邪ひかないうちに着替えちゃいなさい」
「助かる」
脱衣所に置いてあった着替えを持って自室へ。
着替えてリビングへ戻るとバスタオル姿の海原がソファに寝かされていた。
「わー顔真っ赤。ウチが扇いであげるねー」
「先輩がいいです」
「だってさ」
「はいはい」
鈴音さんからうちわを受け取って優しく、そよ風程度の風を送った。
「なんで無理をした」
俺は少し怒った風に話しかけた。
すると海原は少し声を小さくして答えた。
「先輩とお風呂に入れる機会なんて今日ぐらいしかないわけで......堪能しないと勿体ないなと思ったんですぅ」
「だからってのぼせるまで入ることないだろ。一瞬だからいいことだって結構あんだよ」
確かに幸せというのは数が多い方がいいと思う。ただその幸せも毎日のようにあったらありがたみが薄れる。一生に一度の幸せほどありがたいものはない。
「わたしは......一杯思い出が作りたいんです。いつ帰ってこいと言われるか分からないので......」
「海原さんのご両親は共働き?」
「そうです」
「あーじゃあ帰ってこいとは言えないんじゃないかなぁ。とお姉さんは思うわけですよ」
「どうしてそんなことが言えるんですか? 海原は反対を押し切ってここにいるんですよ?」
鈴音さんは得意げに答えた。
「だって、両親共に仕事中なら基本的には今の住所から簡単には動けない。経営者で社長出勤が可能とかなら話は別だけど普通のサラリーマンは無理だね」
「それとなんの関係が?」
まぁ、言いたいことはなんとなく分かるが目の前で「何言ってんだこの脂肪の塊は」と怖い目を向ける海原のために聞こう。
海原の口から言葉が出る前に。
「住所が動かせなくて、編入も色々手続きが面倒で、可愛い娘の我儘となれば帰ってこいとは言われないよ。夏休みとかに顔見せろはあったとしてもね」
なるほど。それなら確かに可能性としては低いわけだ。
「でも親としては心配だぞ! 子供が長期間の外泊となると」
「そうねぇ。迷惑かけてないかとか、元気でやってるかとかね」
子供目線の意見があれば親目線の意見も当然あるしそれは至極当然なもの。
故にどっちの味方にもつけないんだ。
「帰ってこいというくらいなら!」
「おい。あんまり暴れるな。倒れたばっかだろうが」
「帰ってこいというならそっちが来いと言ってやりますよ」
海原のご両親、その苦労はお察しいたします。




