自転車
弱冠16歳で自転車で世界一周した挙句に本まで出すとかマジすげーと思ってた平田オリザさんに倣って19歳の夏に自転車で日本橋から博多まで自転車で走りました。
まぁ、とにかく日本の大きさと高低差を体で感じる二週間。当時すでにいろんな仕事をしてましたので、そんなに長い休みを確保すること自体が奇跡的で、今後は老後までそんなことできないだろうなぁ、などと思いながら江古田校舎をあとにしました。
せっかく大学に入ったのだから学生っぽいことしようと思って所属してたサークルの名前は“徒歩旅行部”。そのサークルの部長さん(放送学科)と映画学科の先輩と共にまずは日本橋に向かいました。テントやら食糧やら(お金ないので基本野宿で自炊)とにかく生活用具一式積んだ怪しげな自転車が三台。日本国道路元標の前からスタートしたのは8月のある平日だったように記憶しております。
一日100kmくらい〜、などと適当な目標決めて国道1号をひたすら走行。まずは小田原まで2日かけて(←この時点でペース遅め)移動。途中野宿した公園では早朝にテントの周りでゲートボール大会が始まりまして大変申し訳ありませんでした状態でした。
最初の難関箱根峠。ロードレーサー勢が凄まじい勢いで登坂していくのを横目に“……なんで荷物こんなに重いんだよ”なんて思いつつ数時間かけて芦ノ湖畔へ。遊覧船やらお土産物屋やら温泉やらには目もくれず、インスタントラーメンかなんかを作って(もちろんマナスル121でお湯沸かすの、灯油安いし)かっこんでからの下り坂。これまでの人生で味わったことのない超ハイスピード天然ジェットコースター状態が30分続き、顔や服に虫さんが多数貼り付いた状態で降りた三島はそれまでのぐずついた空模様が一変した炎天下だったように思います。
野宿してるといろいろなことが起きます。都市部だと結構な頻度で通報されてお巡り様と深夜の世間話タイム(もう眠いの……)愉しんだり、田舎部だと翌朝近所のおばちゃんが朝ごはん持ってきてくれて“ドコから来たの〜、あ〜東京〜、ウチの孫も東京の大学行ってるの〜、それでね〜……”などとホントの世間話タイムになったり。テントに子猫が侵入してきて皆(男子大学生3名)で愛でたり、生ごみ漁りに来たホームレスのおばちゃんと夜中のうなりあい繰り広げたり。
朝、目を覚ましてその街の始まる様子を伺いながら飯盒でご飯作って適当なおかずと共に平らげ、太陽を主に左半身に浴びながら国道1号をひたすら西進し、昼はインスタントラーメンかコンビニ飯。で、夕方辿り着いた街で交番か観光案内所探して、コインランドリー付きの銭湯の在り処を調べ(当時はスマホなどというものは無く、GPSは高価で、持ってた地図の縮尺は大きすぎました)暗くなる前に入浴・洗濯・買い出し・炊事をこなして21時には就寝するというかなり健康的な生活様式を確立しておりました。
沿道を走る電車の行き先表示から“東京”の二文字が消え、あれほどビビっていた鈴鹿峠も難なく(筆者の自転車だけ下りでパンクして通りすがりの軽トラに拾っていただき麓のカート屋で修理してもらったケド)通り過ぎる頃には、街中で交わされる言語体系も変化してまいりました。
実際に自分で移動してみると、その距離感と町々を隔てる川や山によるゆるやかな仕切りから、コトバや住んでるヒトの雰囲気がちょっとずつ変容していくのが良くわかりました。翌年には日本橋から青森まで走った(このときはたったの一週間でした)のですが、ホント最後の方は地元の老人とコトバが通じなかった……。
この自転車旅行で忘れられない光景。神戸で見た仮設住宅街とブルーシートに覆われた埠頭の一角、佐田岬半島のみかん畑に埋もれるように建つ伊方原発、そしてゴーストタウン化した筑豊の銭湯にあった“炭鉱労働者専用浴槽”。こんな狭い国土の中にも様々な形で断絶があるのだなぁとぼんやり思っておりました。
そういえば四国の北岸で野宿してた朝、ラジオからダイアナ妃が亡くなったニュースが流れて来たこともありました。交通事故には気をつけようなどと思いながらも、そもそもなんで交通事故なんかで亡くなるんだ? などと不思議に思っておりました。この一件に際し、未だに陰謀論が消えないのも、その根底にはこの“スピード出し過ぎてハンドル切り損ねて中央分離帯ぶつかるとか運転手あまりに低能なんじゃない!?”という素朴なギモンがあるからなのだと思いますが、多分雇用主から“パパラッチうざいからアクセル踏みぬけ”とか云われた結果がコレなのではないかと愚考しております。
まぁ、それはさておき、二週間かけて博多まで到着したはよいものの、翌日には東京に戻らねばならなかった筆者は、博多で合流した他の部員さんたちとの挨拶もそこそこに自転車バラして飛行機積んで羽田へとんぼ返り。ついでだから羽田からまた走って夜中の2時くらいに日本橋に辿り着きました。すでに9月に入り、涼しい夜風とそれでもなおまとわりつく湿気のなか、街の建物の灯りも消え、のっぺりとした黄色のナトリウム灯に照らされた日本国道路元標。狭いようで広いこの国の形を改めて実感するほど達観してませんでしたけど、まぁそれなりに思うところはあったんだと思います。
それから数年後。平田オリザさんの現場に音響チーフでついたことがありました。別に“オレ、オリザさんの本読んで(読んでないけど)自転車旅行しました!!”とかお話することもなかったのですが、とにかくその現場は稽古場からして独特の雰囲気が広がり、とても落ち着いた不思議な空間が出来上がっていたように思います。そういえば筆者の初めての旅公演もこの『その河をこえて、五月』でした。かつて自転車で移動したルートをバスや電車や飛行機でうろつく一ヶ月。やっぱり日本って狭いようで広かったです。




