13.
私は荻野谷さんが結婚しているとか、年が離れているとか、立場が違うとか、そういうことに捕らわれすぎているのではないか。秋生の言葉を聞いてからそんな気がし始めた。彼が結婚していると分かった時から、「荻野谷さんを振り向かせたい」と同じか、それ以上に「どうしてこの恋は許されないのか」という怒りに突き動かされてきた。でも、大事にすべきは怒りではない。
怒りでないなら何が私の中にあるのだろう。荻野谷さんの奥さんを妬むのでなく、木崎さんと荻野谷さんの距離感を僻むのでなく。一つ、一つ余計なものを剥ぎ取るように、私の荻野谷さんへの気持ちを探した。意地悪な運命に負けたくないという意地と、今更何もせずに諦めるなんて格好悪いという見栄も取り払って、そして、驚いた。心のどこを見回しても、あの鮮やかな感情は無かった。彼を自分のものにしたいという欲求もそこに残ってはいなかった。あれほど大事に抱いていたつもりなのに、私は愛しい小さな隕石の最後を見逃していた。私が木崎さんと傷をなめ合い、意地を張り合っている間に、静かに恋は終わっていたのだ。残っていたのは荻野谷さんへの憧憬だけ。
それは馬鹿馬鹿しくて悲しい失恋だった。なかでも一番呆れたのは、終わったと知った自分がその事実に安堵したことだった。
失恋が発覚した翌日、私は何となしに「水槽」に向かった。木崎さんに言ったら恋敵の撤退を喜んで、その上で間抜けな私を散々に馬鹿にしてくれるのだろう。いなくなってくれていて良かった。でも、もしかしたら良かったねと苦しい恋の終わりを私のために喜んでくれるかもしれない。そんな取り留めのないことを考えながらベンチに座って、中庭の木々の影が床の上で揺れるのをずっと眺めていた。
ゆっくりと太陽が動いて、眺める影が無くなってしまった頃に人の気配が近づいてきた。自然と顔を上げて相手を認識し、幻覚でも見ているのかと息を詰めた。しかし、瞬きを繰り返してもその姿は消えることはなく、まっすぐに私の方へ向かってきた。
「寂しくなっちゃったね」
にっこりと笑った荻野谷さんは、いつも木崎さんがいたあたりに腰かけた。彼の言葉の含みを察して私はそれを否定した。
「木崎さんとは偶然に一緒になることが多かっただけですから」
偶然、と強調すると彼はくすっと笑った。
「ここね、窓際の席は向かい側の二階の廊下から良く見えるんだよ。うちの研究室を出るとちょうど目の前だから、二人が一緒に居るのをよく見かけた」
彼が指で示す方を目で追うと、中庭越しに向かいの建物がある。確かにこちらに向いた窓があるけれど、こちら側からは向かいの建物の中はほとんど見えない。おかげで私はこれまで窓の向こうを意識したことが無かった。考えてみれば視線を遮るものがないのだから、窓際なら見えていて当たり前だ。待ち伏せているつもりの背中はいつも丸見えだったことになる。
「今日はずっと一人で、ここにいるでしょう?」
当然、今日も日がな一日ぼんやりとしている私が見えていたのだろう。荻野谷さんは優しく私を見た。きっと私が木崎さんに捨てられて、傷ついているのだと思っている。それで声をかけてくれるのだから、思った通り優しい人だ。でも、その優しさも今回は少し的外れだった。彼を一目みたいと通い詰めた私の気持ちが彼にはちっとも伝わっていなかったことが明らかになってしまったのだから。何とも情けないこと続きで笑えてしまう。
「違うんです。私と木崎さんとは本当に、何にもないんです。片思いでも、両想いでも、たぶん友達でもないんです」
苦笑いのまま首を横に振ると、荻野谷さんは困った顔になって小さく頭を下げた。
「そっか。なんだか余計なことを言ったみたいで、ごめん。ずっと、あいつに会いに「水槽」に来てると思ってたもんだから」
私はもう一度、今度は力を込めてきっぱりと否定した。
「誤解です」
「失礼しました」
今度は荻野谷さんも力を入れて、謝ってくれて、それがおかしくて笑ってしまった。
終わったと自覚したら、こんなに普通に話すことができる。言葉に詰まることもない。私がずっと憧れながら恐れていたことはこんなに簡単なことだったのかと僅か数言の会話を反芻した。その途中で、頭の隅で何かがちらりと引っ掛かった。会話の途中に何か見逃してはいけないことがあった。
私は引っ掛かりの原因を慎重に拾い出した。
「荻野谷さんも、ここのこと「水槽」って呼ぶんですね?」
「ああ、研究室の人は皆そう呼んでるね。向かいからみると、木漏れ日が揺れるのも水みたいで、本当に水槽に見えるんだ」
あっさりとした返事に私の顔からゆっくり笑みが引いていく。
「木崎さんも当然、ご存じだったんですよね? ここが良く見えるって」
「うん。だから、大胆だなと」
荻野谷さんは途中で言葉を飲み込んだ。私は唸った。
あの野郎。
彼はただの優しい仲間なんかじゃなかった。決して手に入らないものを奪い合い、自分の手に入らないなら、相手の手にも渡したくないと足掻く卑怯で不毛な恋敵だった。彼は全て承知でこの窓際に私と並んで座り続けていた。その背中を中庭の向こうの人に見せるために。その誤解を誘うために。
「あいつ、誰を牽制したかったんだろう?」
察しの良い荻野谷さんが呟くので、私は口の中で小さく答えた。
「私です」
あの人と私は、恋敵だったのです。
これにて完結です。読んでいただきありがとうございました。