第9話
吉井理子物語 第9話
一回裏。
幕張の潮風が、一塁側スタンドから漂う「不快な日常」の匂いを運んできた。
安物の肉が焦げる匂い。酔客の締まりのない笑い声。そして、時折響く爆竹の破裂音。
ここは戦場ではない。見捨てられた者たちが集う、怠惰なピクニック会場だ。
「……たいぎぃのぉ。反吐が出るわ」
理子はベンチの最前列で、フェンスを握りしめる指に力を込めた。
その視線の先。マウンドには、まばゆいほどの光を放つ若田部千夏が立っていた。
彼女は、汚れたシーサイドスタジアムの中で唯一、磨き抜かれた宝石のように異彩を放っている。
「プレイボール!」
千夏が、ゆったりとした、だが無駄のないフォームから右腕をしならせた。
一番・加藤。シーガルズの中では数少ない、バットが振れる男だ。
初球。外角高め、百五十キロ近いフォーシーム――に見えた。
「っらぁ!」
加藤が鋭く踏み込み、最短距離でバットを出す。
完璧なタイミング。快音が響くはずだった。
だが、白球はインパクトの直前、まるで意志を持っているかのように、わずか数センチだけ「外側」へ逃げた。
パカァッ。
響いたのは、木製バットの根元が悲鳴を上げる、情けない音だった。
打球は力なく力なく舞い上がり、千夏のグラブに吸い込まれる。ピッチャーフライ。
「……ワンシームか」
ベンチの理子が、メガネを押し上げながら呟く。
真っ直ぐの軌道で来ながら、空気抵抗を偏らせて手元で汚く動かす。現代野球のトレンドを、二十歳の娘が涼しい顔で使いこなしている。
二番・藤田。小技が売りの左打者だが、千夏は嘲笑うかのように、今度は「縦」の力を解放した。
追い込んでからの三球目。
胸元へ来る快速球に、藤田が仰け反りながらバットを出す。
その瞬間、ボールが視界から消えた。
ストライクゾーンを通過するはずの白球が、打者の目の前で垂直に「落下」したのだ。
「ストライッ! アウト!」
藤田は、空を切ったバットを握ったまま、地面を凝視して動けなかった。
これこそが、かつての名投手・千野から受け継がれ、若田部久志が磨き上げた「お化けフォーク」の正体。
理子はそれを見て、唇を噛んだ。
(……あんなもん、今のうちの連中じゃ、百回振っても当たらんわ)
三番・山崎も、スプリットと縦スライダーのコンビネーションで翻弄され、最後は再び「消えるフォーク」の前に膝を折った。
三者凡退。
幕張の空に、千夏の圧倒的な支配力が示された。
「よっしゃ三振! よーし、ちょうど肉も焼けたぞ。ほら、山崎の分も食うたれ」
一塁側スタンドから、場違いな歓声が上がる。
彼らは、自分たちのチームの打者が手も足も出なかったことを、焼肉の「焼き上がり」の合図程度にしか思っていない。
ベンチに戻ってくる山崎の鼻腔を、焦げたタレの匂いが突く。
「……クソが」
山崎がヘルメットをベンチに叩きつけた。だが、その怒りは千夏に向けられたものか、それとも背後の観客に向けられたものか、彼自身にも分かっていないようだった。
「……情けないのぉ」
理子が、立ち上がった。
「相手は二十歳のお嬢さんよ。その娘に、赤子の手をひねるみたいに扱われて、それで肉の匂い嗅いで満足しとるんか」
「なんだと、吉井!」
山崎が色めき立つが、理子の瞳に宿った、絶対零度の殺気に言葉を失う。
「黒木さんは、あのボロボロの肘で、プライド守るために投げたんよ。あんたら、その一回表の重みを、この一回裏で全部ドブに捨てたんじゃ。……それが、わしには一番たいぎぃんよ」
理子はベンチを飛び出し、一人、ブルペンへと歩き出した。
もう、座って見ている時期は終わった。
マウンド上の千夏は、ベンチに引き上げる際、理子の姿を捉えて不敵に微笑んだ。
(見てた? これが『本物』の野球よ、おばさん)
声にならない嘲笑が、潮風に乗って理子の耳に届いた気がした。
理子はブルペンのマウンドに立つと、土を強く蹴った。
スタンドのBBQの煙を、アンダースローの強烈な旋回でなぎ払う。
「……お化けフォークか。面白いね」
理子は、右手の指先でボールの縫い目をなぞる。
「下に落ちるのがお化けなら……。下から這い上がるのは、地獄からの使いか何かかね」
一回が終わって、0対0。
スコアの上では互角。だが、精神的な蹂躙はすでに始まっていた。
バックネット裏で、徳田オーナーが最後の一口のマテ茶を飲み干す。
「いいですね、理子君。その怒りこそが、この腐った土壌に必要な肥料だ」




