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吉井理子物語  作者: 水前寺鯉太郎


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第10話

吉井理子物語 第10話


二回表。マウンドの黒木は、もはや崖っぷちに立っていた。

 指先から放たれるボールは、一回表のような鋭いスピンを失い、死にかけの蝶のように力なく宙を舞う。

 ――バキィッ。

 乾いた音が響くたび、白球は非情な軌道を描いてシーガルズの守備陣の隙間を抜けていった。

「……あいつら、あれでええんですか」

 ベンチ。理子はこみ上げる苛立ちを抑えきれず、指揮官・坂本和信の横へと歩み寄った。

 坂本は、沈みゆく船を見つめる老航海士のように、ただ静かにベンチの柵に肘をついている。レンズの奥にある瞳は、焦点が合っているのかすら怪しい。

「坂本監督。聞いとるんですか。野手陣のあの動き。あれは野球じゃありませんわ、ただの散歩じゃ。なんで誰も怒鳴らんのですか」

 坂本はゆっくりと顔を向けた。指先でメガネのブリッジを押し上げる動作だけが、彼がまだ生きていることを示していた。

「……吉井君。君は、死体に鞭を打てば起き上がるとでも思っているのかね?」

「な……」

「あれが、今の千葉マリーンシーガルズの『正体』だよ。メジャーの最前線にいた君なら、腐敗の臭いには敏感だろう。彼らはもう、負けることに慣れたんじゃない。負けて、誰も何も言わなくなる『安寧』を選んだんだ」

「それを変えるのが、監督の仕事じゃろ!」

「変える? フフ……」

 坂本の口角が、自嘲気味に歪んだ。

「客を見てみろ。誰も我々に『勝利』など期待していない。彼らが求めているのは、安っぽい焼肉の煙と、自分たちより惨めな奴らを叩くための酒の肴だ。……止めようとした奴から、この沼に沈んでいくんだよ」

 グラウンドでは、黒木がついに五点目を失っていた。

 三塁側を埋め尽くした「赤」の歓声が、巨大な波となって一塁側の沈黙を飲み込んでいく。

「おい黒木! どこ投げよんならボケ!」

「そんなヘロヘロな球、わしの婆さんでも打てるわ!」

「バーベキューの火が消える前にさっさと降板しろ!」

 さっきまで流し素麺を楽しそうに啜っていた観客たちが、今は鬼の首を取ったような顔で罵声を浴びせている。その醜悪な変貌に、理子の胃が激しく収縮した。

 怒り。屈辱。そして、同族嫌悪。

 ポケットの中のシワくちゃになったタバコの箱を、指先が引きちぎらんばかりに握りしめる。

(……おどれら、いい加減にせぇよ)

 吸いたい。今すぐこの場を投げ出して、紫煙の中に逃げ込みたい。

 だが、ここで火をつければ、自分もあの「死体」の一員になる。理子は震える手で、メガネを乱暴に拭き直した。

 一方、ベンチ裏の薄暗い用具室。

 そこには、地上の喧騒を拒絶したような、凛とした静寂があった。

 シュッ……、シュッ……。

 オイルの混じった革の匂いの中、定岡が一人、無心でグラブを磨いていた。

 

 かつてドラフト一位で入団し、瞬く間に膝の粉砕骨折で戦線を離脱した「幻のエース」。

 今は雑用係として、自分を追い出した球団の道具を整えている。

 定岡は、ベンチから漏れ聞こえる罵声も、坂本監督の冷徹な言葉も、すべてを知っていた。

 

 彼が磨いているのは、今マウンドで炎上している黒木の予備グラブだ。

 手入れを怠り、ボロボロになった他の選手の道具とは違い、黒木のグラブだけは、まだ戦う意志を宿している。

「……まだ、終わらせるには早いですよ、黒木さん」

 定岡の指が、グラブの芯の部分にある小さな傷をなぞる。

 彼は時折、打撃投手としてマウンドに立つ。やる気のない主力打者たちが、彼の「引退したはずの足で投じる一球」に翻弄され、苛立ちを露わにするのを、彼は冷めた目で見ていた。

 パァンッ、という乾いた音が、再びスタジアムに響く。

 黒木が膝を突き、うなだれた。

 二回表、終了。スコアボードには、無慈悲な「5」の数字。

 理子は、ブルペンへと向かう通路の影で、用具室から出てきた定岡と目が合った。

 光を失ったはずの定岡の瞳の中に、一瞬だけ、研ぎ澄まされた刃のような鋭い光を見た気がした。

「……用具係さん」

 理子が呼びかけると、定岡は足を止めずに答えた。

「吉井さん。ここの土は、メジャーより粘っこいですよ。……一度ハマれば、二度と抜け出せない」

 理子は、その言葉に何も言い返せなかった。

 ただ、自分の右腕を強く擦った。

 

 地獄の釜の蓋は、まだ開いたばかりだ。

 五失点。

 だが、この惨状こそが、理子がマウンドへ這い上がるための「地獄の階段」であることを、彼女はまだ知らない。

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