第11話
吉井理子物語 第11話
五回表。
幕張の夜を切り裂く、乾いた破壊音が響いた。
スコアボードの数字は、すでに二桁に届こうとしていた。二回までに負った五失点という重い十字架に、さらに追加の「点」が、まるで死者に手向ける花のように添えられていく。
マウンド上の黒木大地は、もはや幽霊のような佇まいだった。右肘を覆う厚いテーピングは、染み出した汗と内出血でどす黒く変色し、その腕を振るたびに、ベンチの理子の耳には「ギチリ……」という肉の軋む幻想的な音が届いていた。
パカァッ!
明太バッツの五番・遠藤。その鋼のような筋肉が、黒木の放った甘いチェンジアップを完璧に捉えた。
打球はバックスクリーン横の照明を直撃し、火花を散らす。
「……ホームラン。これで十点差か」
理子はベンチの奥で、膝の間で指を組み、強く握りしめた。
均衡が崩れたのではない。死体の上を、戦車が通過しているのだ。
東野の三遊間安打、小野田の完璧なバント、そして甲斐田の右中間を破るタイムリー。明太バッツの攻撃には、王者の「無慈悲な正義」があった。隙がない。一点の情けもない。
だが、その蹂躙以上に理子の神経を逆なでしたのは、一塁側――ホームチームのスタンドの「静寂」だった。
「おい見ろ! からくり競輪、第三レース始まったぞ!」
「野球なんかより、あっちの義体レースの方がよっぽど魂が震えるわ!」
観客たちは、野球に背を向け始めていた。
シーサイドスタジアムの隣には、広島のそれとは一線を画す、ハイテクな「からくり競輪場」がそびえ立っている。
フェンスの向こう側、激しいモーター音と、加速する義体から放たれる青白いスパーク。三連単のオッズに一喜一憂し、スマホの画面を連打する観客たち。
そこには、野球がかつて持っていたはずの「熱」があった。
一方、眼下のグラウンドには。
〇、〇、〇、〇、〇……。
シーガルズのスコアボードに並ぶ、無機質な「無」。
それは単なる数字ではない。このチームが過去三十年で積み上げてきた、拒絶と諦念の集大成のように見えた。
「……なんじゃ、これ」
理子は、頭を抱える代わりに、ゆっくりと顔を上げた。
メガネが、怒りの熱気で白く曇っている。
マウンドの上、黒木がついに膝を折った。
審判がタイムをかけ、坂本監督がゆっくりとベンチを出る。その背中は、負け戦の最後を看取る葬儀屋のように重い。
「……黒木さん」
理子の指先が、タバコの箱をポケットの中で完全に握り潰した。
メジャーの栄光も、廿日市の潮風も、今は遠い。
目の前で、ボロボロになった一人の男が、観客からも、味方からも見捨てられたマウンドで、一人で「野球」を死守しようとしている。
「たいぎぃ……。ほんまに、死ぬほどたいぎぃわ、あんたらは」
理子は曇ったメガネをユニフォームの袖で乱暴に拭った。
視界が、鋭く、鮮明に戻る。
彼女が見つめたのは、崩れゆく黒木の背中ではなく、三塁側ベンチで「次は誰が打つ?」と談笑する、若田部千夏たちの傲慢な笑顔だった。
理子は立ち上がり、自らの右腕を強く、一本の杭を打つように叩いた。
「監督……。もう、葬式は終わりにしましょうや」
その声は、競輪場の喧騒を切り裂くほどに、鋭く、重かった。
十失点。五回表、無死二、三塁。
絶望しかないこの舞台に、理子の「アンダースロー」という名の毒薬が必要な時が来た。
「吉井理子、行きます」
彼女は坂本監督を追い越すようにして、ベンチの階段を駆け上がった。
背後で、定岡が磨き上げた「黒木の予備グラブ」を、理子の元へ投げ渡した。
「……使いなさい、吉井さん。そいつには、まだ熱が残ってる」
理子はそれを空中で捕らえ、力強く嵌めた。
一塁側スタンドの肉の匂いも、爆竹の音も、隣の競輪場の熱狂も。
今、この瞬間、すべてを「下から」なぎ倒すための旋回が始まる。
崩壊の果てに、地獄からの使いがマウンドへ降り立つ。




