第12話
吉井理子物語 第12話
――絶望の底、潮騒に響く「ジャン」の音
七回裏、幕張。
プロ野球における「ラッキーセブン」とは、本来、逆転を信じるファンが立ち上がり、空に風船を解き放つ至福の時間だ。
だが、シーサイドスタジアムに流れる球団歌は、古いスピーカーから漏れる雑音のように空々しかった。スタンドに風船は舞わない。代わりに舞うのは、海風に煽られたゴミと、競輪のハズレ舟券だけだった。
スコアは、七対〇。
六回に黒木が力尽き、後を継いだ若手がさらに炎上。刻まれた数字は、もはやマリーンシーガルズという球団の「死亡宣告」に等しかった。
マウンド上の若田部千夏は、肩を大きく回し、退屈そうに空を仰いでいた。彼女の瞳には、打席に立つシーガルズの打者など映っていない。ただ、この退屈な「作業」を早く終わらせ、祝杯を上げることしか考えていないようだった。
「……打て。せめて、かすらせてみろや」
理子はベンチの最前列で、爪が食い込むほどフェンスを握りしめていた。
マウンド上の千夏が投じる「お化けフォーク」の残像。打者たちはその幻影に怯え、腕を縮こまらせている。その無様な姿は、死を待つ家畜の群れのようだった。
二番、藤田。
千夏の集中力が、その時初めて、わずかに揺らいだ。七点差という安全圏。バッターボックスの藤田が「あまりに弱そう」だったことが、逆に彼女の指先の感覚を狂わせた。
ボール、ボール、ボール……そして、四球。
ヒットではない。千夏の慈悲に近い、歩かされただけの進塁。
「チャンスじゃ! 行け、山崎!」
理子の怒号が響くが、三番・山崎の顔は青ざめていた。
千夏が再びスイッチを入れる。一球目、内角へのエグいシュート。二球目、外角へ逃げるスライダー。
山崎は「消えるフォーク」に怯え、腰を引いた状態でバットを出した。
ボテッ。
鈍い音とともに、ボールは投手の正面へ転がる。
千夏はあくびを噛み殺しながらそれを処理し、ショートへ転送。六―四―三。
完璧なダブルプレー。
「……っ、この、バカタレが!」
理子はヘルメットを叩きつけた。
二死ランナー無し。絶好の、そして最後の「反撃の芽」が、無様に摘み取られた瞬間だった。
一塁側スタンドからは、野球を見限った客たちの「あっちの競輪の方がマシだ!」という罵声が飛ぶ。
だが、その喧騒を切り裂くように、一人の男が立ち上がった。
四番、指名打者――鳥居來樹。
三十九歳。このチームが「マリーンシーガルズ」と名乗る前から、四番の座を守り続けてきた絶滅危惧種のベテランだ。
鳥居は、汚れ一つない銀のバットを手に、ゆっくりと打席へ向かう。
彼はこの惨劇の間、一度も口を開かなかった。同僚がサボろうと、客が肉を焼こうと、ただ静かにベンチの隅で自分の出番を待ち続けていた。
「おい、鳥居! もうええじゃろ、適当に三振して終わらせろや!」
スタンドからの野次。鳥居はそれすら、耳に入っていないようだった。
彼は理子の前を通り過ぎる際、一瞬だけ足を止めた。
メガネの奥の理子の「怒り」を、彼は静かな、冷徹なまでの瞳で見つめ返した。
――お嬢ちゃん。本物の『たいぎぃ』ってやつを、見せてやるよ。
鳥居がバッターボックスに入る。
その瞬間、スタジアムの空気が変わった。
隣の「からくり競輪場」で、最終周回を告げる鐘の音――ジャンが激しく鳴り響く。
チリーン、チリーンと空気を震わせる狂騒。
その音と重なるように、千夏が初球を投じた。
若田部千夏の自慢、フォーシームに見える「ワンシーム」。
手元で汚く沈み、数々の強打者のバットを粉砕してきたその球が、鳥居の懐を抉る。
――ッシャア!!
鳥居の、肺の底から絞り出したような咆哮。
老いたはずの身体が、バネのようにしなり、最短距離でバットを振り抜いた。
打球音は、爆竹の音よりも、競輪のモーター音よりも高く、鋭く幕張の夜に響き渡った。
「な……っ!?」
千夏が目を見開く。
白球は、彼女の頭上を、光の矢となって突き抜けていった。
右中間。真っ二つに切り裂かれた外野の芝を、ボールが猛烈な勢いで転がっていく。
鳥居は、重い脚を必死に回した。
若手ならシングルで止まるような打球だが、彼は迷わず二塁を蹴ろうとする。
その背中には、もう「諦念」などなかった。
「回れぇ!! 鳥居ぃ!!」
理子がベンチを飛び出し、腕を回す。
鳥居は泥にまみれながら、セカンドベースに滑り込んだ。
二塁打。
土煙が舞う中、彼はゆっくりと立ち上がり、自らのユニフォームについた砂を払った。
そして、三塁側ベンチ――唖然とする若田部監督と千夏を、真っ向から睨みつけた。
その視線は、雄弁だった。
『俺は、まだここにいる。お前たちの退屈な勝利を、タダで許すつもりはない』
スタンドの競輪ファンたちが、思わず手を止めた。
電光掲示板のオッズよりも、今、マウンドの少女と二塁上の老人の間にある「何か」の方が、よっぽど魂を震わせることに気づいたかのように。
七対〇。
点差は、依然として絶望的だ。
だが、シーガルズの四番が見せたその一振りが、腐りきった土壌に一本の杭を打ち込んだ。
理子は、震える手でメガネを押し上げた。
心臓が、メジャーのマウンドにいた時と同じリズムで、激しく鐘を打っている。
「……鳥居さん。あんた、最高に格好ええわ」
反撃の狼煙は、上がった。
それは、勝利への希望ではない。
プライドという名の、最後の、そして最強の「悪足掻き」の始まりだった。




