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吉井理子物語  作者: 水前寺鯉太郎


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第13話

吉井理子物語 第13話


――地獄より低く、空より高く。

 二塁上に残された鳥居の、射抜くような眼光。

 それが、マウンド上の若田部千夏の指先を、数ミリだけ強張らせた。

 余裕しゃくしゃくだった彼女の顔から、色が消える。今、自分を打ち抜いた男が纏っているのは、技術ではない。この腐り果てたチームの底に沈んでいた、ドロドロとした「怨念」のような何かだ。

「……気持ち悪い」

 千夏は小さく毒づき、ロジンを強く叩いた。

 五番・山田和利がバッターボックスに入る。鳥居が作った、唯一にして最大の好機。

 山田は、決して天才ではない。だが、この瞬間、彼は自分が「鳥居の遺志」を預かった防波堤であることを理解していた。

「っらぁ!」

 千夏の投じる、百五十キロ近いフォーシーム。

 山田はそれを、バットを短く持って食らいついた。芯を外されながらも、泥臭くファウルで逃げる。三球、五球、八球……。

 エリートの千夏にとって、自分より明らかに格下の打者に粘られることほど、屈辱的なことはない。

 九球目。千夏はギアを最大まで上げた。

 伝家の宝刀、お化けフォーク。

 山田のバットが、完全に空を切る。

 

「ストライッ、アウト!」

 

 三振。だが、山田はすぐには立ち上がらなかった。膝をつき、肩で息をしながら、千夏の右腕をじっと睨みつける。その十球の粘りが、千夏の美しい投球フォームに、目に見えない「ささくれ」を作った。

 七対〇。スコアは動かない。

 だが、千夏はベンチへ戻る際、自らの指先に走った微かな痺れに、眉をひそめた。

 そして、八回表。

 絶望がスタジアムを完全に支配し、競輪のオッズにしか関心がない観客たちの頭上に、その声が響き渡った。

『マリーンシーガルズ、ピッチャーの交代をお知らせします。黒木に代わりまして――吉井理子。背番号、00』

 瞬間、スタジアムから音が消えた。

 一塁側スタンド。肉を焼いていた男の手が止まる。爆竹を鳴らそうとしていたガキが、口を半開きにしてマウンドを見つめる。

 女。

 メガネをかけた、細身の女。

 

 理子はゆっくりと、一歩一歩、マウンドの土を踏みしめた。

 その背中に踊る「00」の数字。

 それは、メジャーでの栄光を捨て、一度死んだ自分が、地獄の底から這い上がるために選んだ「無」の象徴だった。

 マウンドで、坂本監督がボールを手渡す。

「……負け戦ですよ、吉井君」

「知っとります。……わしは、ここを葬儀場にするために来たんじゃ」

 理子はボールを受け取ると、一度も黒木がいたベンチを振り返らなかった。

 

 彼女はマウンドで、深く、深く身体を沈めた。

 観客が息を呑む。

 理子の視界は、もはやスタジアムの醜悪な光景を捉えていなかった。ただ、キャッチャーのミット、その一点だけが、ダイヤモンドのように輝いて見える。

 セットポジション。

 理子の右手が、マウンドの土を薄く削り取る。

 リリースポイントは、地表数センチ。

 そこから放たれたボールは、一度沈み、バッターの手元で重力に逆らうように「跳ねた」。

 ――ビュンッ!

 

 空気そのものが悲鳴を上げたような、異質な風切り音。

 バッツの打者は、スイングの始動すらできずに、白球が顔の横を通過するのを眺めることしかできなかった。

 

 ドドォォンッ!

 

 ミットの芯を打ち抜く、爆発音のような捕球音。

「ストライッ!!」

 審判の絶叫が、静寂を切り裂く。

 どよめきが、波のようにスタンドへ広がった。

「……今のは、何キロだ?」

「下から浮いたぞ。お化けフォークとは逆の……」

 三塁側ベンチ。

 若田部監督が、持っていたスコアブックを握りつぶした。

「……ヤバいね」

 その声は、かつて全米を震撼させた「あの魔球」を、目の前で目撃したスカウトのような震えを帯びていた。

「できれば、彼女が出る前に終わらせたかった。だが、間に合わなかったか……。あれが、世界に絶望して、世界を絶望させようとしている『毒』の正体だ」

 理子は、無表情のままロジンを手に取った。

 メガネの奥の瞳には、冷徹な炎が宿っている。

 彼女にできることは、ただ一つ。

 これ以上、このマウンドを汚させないこと。

 

 七対〇。

 勝負は決したと誰もが思っていた。

 だが、吉井理子が放ったその一球が、幕張の夜を「野球の戦場」へと無理やり引き戻した。

 

 焼肉の匂いも、競輪の狂騒も。

 今、この瞬間、すべてがアンダースローの旋回に飲み込まれていく。

「……たいぎぃのぉ、ほんまに。……まとめて、黙らせてやるわ」

 

 理子の二球目。

 それは、地獄から天を突く、崩壊へのカウントダウンだった。

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