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吉井理子物語  作者: 水前寺鯉太郎


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第14話

吉井理子物語 第14話


――並び立つ「零」、それぞれの墓標

 八回表、そして九回表。

 幕張の潮風を切り裂き、吉井理子のアンダースローが、王者の自尊心を無慈悲に削り取っていった。

 一度沈み、打者の手元で狂ったように跳ね上がる「毒」の乗った速球。

 地を這い、消える。メジャーのスカウトがかつて『潜水艦の魚雷』と称した、その異質な軌道。

 博多明太バッツの強打者たちが、面白いように空を斬る。バットをへし折られ、あるいは見逃し三振を喫し、一塁へ歩くことすら許されない。理子のリリースポイントから放たれる一球一球が、スタジアムの喧騒を一つずつ、物理的に黙らせていく。

 六者連続凡退。

 だが、理子がマウンドを降り、ベンチに戻っても、そこにハイタッチを求める手は一つもなかった。

 

「……ほう、お疲れさん」

 坂本監督が、死んだ魚のような目で、形ばかりの言葉をかける。

 野手陣は、理子と目を合わせようともしない。彼らの目は、スコアボードの「7対0」という数字と、試合終了後に何をして遊ぶかという雑念の間に浮遊していた。

「……打てや」

 理子はロジンで白くなった手をベンチの柵に叩きつけた。

「少しは、意地を見せて打ってみんさいや。あんたら、ほんまにプロか?」

 その広島弁の鋭い刃は、誰の皮膚にも届かなかった。彼らはすでに、恥という感覚を「死」によって麻痺させていたからだ。

 九回裏、最後の攻撃。

 スタンドの熱気は、完全にフェンス越しの「からくり競輪」に奪われていた。

 競輪のレースが佳境を迎えるたびに上がる歓声。それとは対照的に、野球場のバッターボックスには、処刑を待つ囚人のような静寂が漂う。

 代打、片岡。

 若田部千夏の指先には、理子への対抗心からか、前半戦にはなかった殺気が宿っていた。

 初球。内角へのフォーシーム。片岡が反射的にバットを出すが、球威に押されて芯を外される。

 バキィッ。

 鈍い音を残して、打球は力なく二塁手の正面へ。一死。

 続く一番、加藤。

 理子の好投に少しは感化されたのか、珍しく鋭いスイングを見せる。だが、千夏は嘲笑うかのように「ワンシーム」で手元を狂わせた。どん詰まりのピッチャーフライ。千夏はジャンプすら必要とせず、胸元でそれを捕らえた。

 二死。

 そして、最後の打者、藤田が打席に入る。

 千夏は、捕手・甲斐田のサインを一度も拒まず、うなずいた。

 彼女の瞳は、目の前の藤田ではなく、ベンチの奥でメガネを光らせている理子だけを射抜いていた。

(見てなさい、メジャー帰りのおばさん。これが、現実よ)

 千夏が振りかぶる。

 放たれた白球は、打者の手元で不気味に静止したかと思うと、次の瞬間、垂直にマウンドの土へと刺さった。

 千野直伝――「お化けフォーク」。

 藤田のバットが、何もない空間を虚しく薙いだ。

 パァンッ、とミットが閉じる音が、スタジアムに幕を引いた。

「ゲームセット!!」

 審判の宣告。

 マリーンシーガルズ側のスコアボードに並んだ「0」の行進。

 それは、並び立つ九つの墓標のように、理子の目には映った。

 七対〇。完封負け。

 

 歓喜に湧く三塁側、赤一色のスタンド。

 対照的に、一塁側ではファンがそそくさとゴミをまとめ、競輪の配当金を確認しながら出口へと急ぐ。

 負けた悔しさも、勝った喜びもない。そこにあるのは、ただ「今日一日が終わった」という虚脱感だけだった。

「……お疲れ、千夏。ナイスゲームだ」

 若田部監督が娘を迎え入れる。千夏は笑っていたが、その瞳の奥には、八回と九回に理子が見せた圧倒的な投球への、言い知れぬ屈辱と恐怖が影を落としていた。

 理子は、誰とも言葉を交わさず、泥を拭うこともせず、一番にグラブを持ってベンチを去った。

 ベンチ裏の薄暗い通路。

 そこには、用具係の定岡が、いつものように誰の目にも留まらない場所で立ち尽くしていた。

 足元には、理子が今日投げた、たった六つのアウトを奪うために汚れた予備グラブが置かれている。

「……定岡さん。ここの土は、ほんまに抜け出せんね」

 理子が足を止めずに言う。

「吉井さん。泥沼の中で息をするには、まず、自分を殺すしかないんですよ」

 定岡の乾いた声が、コンクリートの壁に跳ね返る。

 理子は、強く、強く拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込み、微かな血が滲む。

 

(……これが、わしの再スタートか)

 

 メガネを指で押し上げ、彼女は出口の光に向かって歩き出した。

 完敗。

 だが、吉井理子の心の中で、競輪の鐘の音よりも激しく、何かが鳴り響いていた。

 この「零」の行進を、いつか必ず、血の通った数字に変えてやる。

 たとえ、このチームの全員を敵に回しても。

 二〇三〇年、開幕戦。

 それは、最悪の、しかし最高の「絶望」から幕を開けた。

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