第15話
吉井理子物語 第15話
――赤き圧殺、故郷という名の戦場へ
二〇三〇年、四月。
開幕三連戦。千葉マリーンシーガルズを待ち受けていたのは、再生の予感などではなく、徹底的なまでの「蹂躙」だった。
若田部千夏の圧倒的な投球の前に、打線は沈黙。理子の力投も虚しく、後続が炎上しての逆転負け。スコアボードに刻まれたのは、一つの勝利も、一つの希望もない「0」の三連列。
四月五日、広島駅。
新幹線の自動ドアが開いた瞬間、理子の鼻腔を突いたのは、懐かしいお好みソースの匂いと、春の湿り気を帯びた瀬戸内の風だった。
だが、その香りは今の理子にとって、毒薬のように胸を締め付ける。
(……最悪じゃ。よりによって、このタイミングで広島とはね)
ホームには、赤いユニフォームを纏い、威勢よくドラゴンズの応援歌を口ずさむ市民たちが溢れていた。
かつて、幼い理子もあの赤い帽子を被り、この街のヒーローを夢見た。だが、今、彼女が着ているのは、連敗街道を突き進む千葉のユニフォームだ。
サングラスを深くかけ直し、理子は足早に改札を抜ける。背後で「シーガルズの選手じゃないんか?」「ああ、あの三連敗しとる……」という無遠慮な囁きが聞こえた気がして、彼女は耳を塞ぎたくなった。
チームバスに揺られながら、理子は膝の上でタブレットのスコアシートを睨んでいた。
これから対峙する「広島ライジングドラゴンズ」。昨シーズン四位とはいえ、その実力はリーグ屈指。特にその攻撃陣は、広島の情熱をそのまま体現したような「足」と「一発」を兼ね備えている。
「一番・正田に、三番・町田……。相変わらず、嫌な並びしとるわ」
一番・正田大二郎。出塁すれば必ず走る、機動力野球の申し子。
三番・町田公太郎。かつての天才打者の名を継ぐ、広角に打ち分ける安打製造機。
そして四番、若き大砲・緒方大和。
ドラゴンズの打線は、ひとたび火がつけば止まらない「赤ヘル旋風」の再来と呼ばれている。
「……投手陣も、山内に別府か。変則派に剛腕。今のうちの冷え切った打線じゃ、三点も取れれば奇跡じゃね」
さらに、理子が最も警戒すべき名が、リストの最後にあった。
守護神――津田恒斗。
かつての伝説的守護神の名を継承する、百六十キロに迫る「直球」のみで打者をねじ伏せる怪漢。
理子の「沈み、浮く」アンダースローとは正反対の、重力すら否定する上昇軌道の火の玉を投げる男だ。
バスが球場に到着する。
広島球場。かつての旧市民球場を彷彿とさせる、観客との距離が異常に近い「戦場」。
一歩足を踏み入れれば、そこは一面の赤だ。ドラゴンズファンたちの熱狂的な叫び、叩かれるカンフーバットの音。そのすべてが、シーガルズという侵入者を拒絶するようにスタジアムを震わせている。
「……たいぎぃのぉ。ほんまに、殺気立ちすぎじゃわ」
理子はベンチの隅で、ロジンを指先に馴染ませる。
広島弁の野次が、すでにスタンドから聞こえてくる。
「理子ぉ! 広島に何しに帰ってきたんや! 観光なら廿日市に帰れや!」
「おどれの球、一回表で看板直撃させたるけぇな!」
その鋭い言葉の刃を、理子は不敵な笑みで受け流した。
懐かしい言葉だ。だからこそ、火がつく。
彼女の横で、坂本監督がいつものように光を失った瞳でグラウンドを見つめている。
「吉井君。ここは君の地元だそうだが……歓迎されているようには見えんな」
「当たり前ですよ。広島の人間は、勝負に負ける奴が一番嫌いですからね」
理子はメガネを押し上げ、ドラゴンズの練習風景を冷徹に観察する。
一番・正田の走塁、四番・緒方のスイング。そのどれもが、今のシーガルズに欠けている「勝ちたい」という純粋な狂気に満ちていた。
「……負けとる奴らが、一等ダサい。……それはわしも、同感よ」
理子は自らの右腕を強く、一本の杭を打つように叩いた。
四月五日、アウェイ三連戦。
連敗という名の鎖を引きずりながら、吉井理子は故郷の土にその「毒」を撒き散らす準備を整えていた。
彼女にとって、広島はもはや安らぎの地ではない。
己が生き残っていることを、もっとも辛辣な観客たちの前で証明するための「処刑台」だ。
「さあ……誰から黙らせてやろうかね」
幕張の「零」を、広島の「一」に変える。
吉井理子の第四登板。
赤い熱狂を、漆黒の沈黙へと塗り替えるためのカウントダウンが始まった。




