第16話
吉井理子物語 第16話
――火の玉と、潜水艦。赤い熱狂の処刑台。
広島球場、地下通路。
三塁側ベンチ裏の、換気扇もろくに回らない薄暗い喫煙所。
そこは、華やかな開幕戦の熱狂から最も遠い、シーガルズという「敗残者たちのシェルター」だった。
「……戻ってきてしもうたな、理子。一本、行こうや」
捕手の實森ゆかが、重い防具の感触を確かめながら、不敵な笑みで言った。
理子は無言で、ライターの火を差し出す。
シュボッ、という小さな音が、湿った空気の中に響く。二人の口から吐き出された紫煙が、澱んだ天井へと這い上がっていく。
「……たいぎぃのぉ。タバコでも吸っとらんと、この街の空気は重すぎて窒息しそうじゃわ」
理子は、指先の微かな震えを隠すように、深く煙を吸い込んだ。
窓の外からは、真っ赤に染まったスタンドから響く、地鳴りのような応援歌が聞こえてくる。それは彼女を育て、そして一度は拒絶した故郷の「熱」だ。
「ええんか、先発。黒木さんは、もう肘が動かんそうじゃ」
「……やるしかないんよね。わしらみたいな壊れ物は、使い倒されてナンボじゃけ」
理子は短くなったタバコを、コンクリートの床に落として踏みにじった。その動作は、かつての自分を殺す儀式のようにも見えた。
一方。
一塁側、ライジングドラゴンズのベンチ。
そこには、マリーンシーガルズとは正反対の、研ぎ澄まされた「殺気」が渦巻いていた。
「……吉井先輩には、負けられんけぇ。絶対に」
守護神・津田恒斗が、右腕を激しく振り下ろした。
昨シーズン、セ・リーグの打者を恐怖に陥れた百六十キロの直球。彼のグラブの内側には、剥き出しの闘争心を象徴する言葉が刻まれている。
『弱気は最大の敵』
それはかつてのレジェンドから受け継いだ魂であり、彼自身の呪いでもあった。
「津田くん、ええ面構えじゃ。気合が入っとるのぉ」
背後から、独特のしわがれた声が響く。達川コーチだ。
「メジャー帰りがなんぼのもんよ。下から浮かそうが何しようが、真ん中目掛けて一番速い球を放り込んでやりんさい。この街のファンは、そういう『真っ向勝負』を見に来とるんじゃ」
「……分かっています、コーチ。あの人のアンダースロー、ここで完全に叩き潰しますよ」
津田の瞳には、かつて同じ広島の土を踏み、自分よりも先に世界へ飛び出した「先輩」への、羨望と強烈な劣等感が入り混じっていた。
千葉マリーンシーガルズ、戦術ミーティング。
坂本監督は、ホワイトボードに「吉井理子」の名を、叩きつけるように書き込んだ。
「今日の先発は、吉井だ」
ロッカールームに、動揺と沈黙が走る。三連敗のどん底。黒木という柱を失った今、この「未知数の女」にすべてを託すというのか。
「監督……正気ですか。相手はドラゴンズですよ。一点でも取られたら、あの津田が出てきて終わりだ」
誰かの声に、坂本は冷徹な笑みを浮かべた。
「だからこそ、吉井なのだ。この広島の赤い熱狂を冷ますには、彼女のような、救いようのない『毒』が必要なのだよ」
理子は無言で立ち上がり、古びたグラブを手にした。
それは、定岡が昨日まで徹夜で磨き上げた、黒木の予備グラブだった。
「……行ってくるわ。實森、構えとけよ」
「ああ。地獄の果てまで付き合ってやるわ、理子」
通路を抜け、グラウンドへ足を踏み入れる。
視界に飛び込んできたのは、三万六千人の「敵」が作る、血のような赤の壁。
理子の姿が大型ビジョンに映し出されると、期待よりも嘲笑に近い、割れんばかりのブーイングがスタジアムを揺らした。
「観光なら廿日市へ帰れや!」
「五勝投手に何ができるんなら!」
その怒号を、理子は不敵な笑みで受け流す。
マウンドに立ち、ゆっくりと右腕を下げた。
地面スレスレのリリースポイント。
対するは、ドラゴンズの一番・正田。
理子のメガネの奥に、かつてないほど鋭い「冷気」が宿る。
「……たいぎぃのぉ、ほんまに。……まとめて、黙らせてやるわ」
広島の空に、アンダースローの旋回が始まる。
火の玉と、潜水艦。
相容れない二つの生き様が、真っ赤に染まったマウンドで激突する。
吉井理子の「本当の」戦いが、今、幕を開けた。




