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吉井理子物語  作者: 水前寺鯉太郎


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第17話

吉井理子物語 第17話


――赤き狂騒、変則の凶刃。

 二〇三〇年、四月五日。広島球場。

 スタジアムを埋め尽くす三万人のドラゴンズファンが放つ熱気は、春の夜気を赤く染め上げている。

 一塁側、千葉マリーンシーガルズのベンチ。

 理子は、耳をつんざくようなカンフーバットの打音と、故郷の厳しい野次を、肺の奥まで吸い込んだ。幕張の「焼肉の匂い」よりも、この「殺気」の方がよっぽど呼吸がしやすい。

「……さあ、見せてもらいましょうや。広島の『エース』の実力とやらを」

 一回表、プレイボール。

 マウンドに上がったのは、昨シーズン十勝。広島の次世代を担う変則右腕、山内泰輔。

 彼がセットポジションに入った瞬間、理子のメガネの奥の瞳が、獲物を狙う鷹のように収縮した。

 山内のフォームは、異様だった。

 テイクバックで右腕が完全に体幹に隠れ、リリースの瞬間までボールの「出どころ」が見えない。そして放たれた瞬間、腕がまるで円を描くように大きく振られる。通称「UFO投法」。

 だが、理子には分かっていた。あれは単なる目くらましではない。極限まで球持ちを長くし、打者のタイミングを数ミリ秒ずつ狂わせる「精密な罠」だ。

 一番・加藤優実。

 山内が腕を振る。初球、内角を抉る高速ツーシーム。

 バキィッ、と空気を切り裂く音がベンチまで届く。

「っ……!?」

 加藤の腰が、引けた。百四十八キロ。数字以上の威圧感。

 二球目、同じフォームから放たれたのは、ブレーキの効いたチェンジアップ。

 加藤のバットが、無様に空を切った。完全にタイミングを支配されている。

 三球目。山内の右腕が、今まで以上に「隠れた」。

 ドドォォンッ!

 捕手・坂倉のミットが、爆発音を立てる。

 アウトコース低めいっぱい。加藤はバットを振ることもできず、ただ唖然とマウンドを見つめるしかなかった。

「ストライッ! アウト!」

「……なんじゃ、あの投げ方は」

 ベンチで理子が、身を乗り出す。

「肩の関節、どうなっとるんね。リリースまで球が影に隠れて、パッと出てきた時にはもうミットの中じゃ。ありゃあ、打てんわ……」

 理子の口角が、無意識に吊り上がる。

 打てない、と口では言いながら、その脳内ではすでに「攻略法」ではなく「あの出どころの隠し方を、アンダースローに応用できないか」という略奪の思考が回転していた。

 続く二番・藤田。

 何とかバットに当て、泥臭く食らいつこうとする。だが、山内の「高速ツーシーム」は、伝説の黒田コーチから受け継がれた「命を奪う一球」だった。

 シュート回転しながら手元で急激に沈む。藤田が必死に振り抜いた打球は、バットの芯を数センチ外され、力なくマウンド付近へ転がった。

 ピッチャーゴロ。山内はUFOのような独特な着地から、軽やかにそれを処理して一塁へ送る。

 三番・山崎。

 もはや、山内の術中に完全にはまっていた。

 上下、左右、そして「奥行き」まで操る山内の緩急。最後は外角へ逃げるスライダーに、身体を泳がされ、虚しく三振。

 三者凡退。

 マリーンシーガルズの攻撃は、わずか六分で終了した。

 スタジアムを揺らすドラゴンズファンの大歓声。一塁側ベンチは、まるでお通夜のような静寂に包まれる。

「……打てる気がせん。あんなん、どうやって打つんや」

 加藤がベンチに戻り、ヘルメットを叩きつける。

 その腐った空気を切り裂くように、理子が立ち上がった。

 

 彼女は、定岡が磨き上げた「黒木の予備グラブ」を強くはめ直した。

「……加藤さん、あんまり大きな声で泣き言言わんでくださいや。広島のファンに、笑われますよ」

 理子は坂本監督を追い越し、マウンドへと歩き出す。

 一歩、足を踏み出すごとに、三万人の「敵」が作る赤い熱狂が、巨大なプレッシャーとなって彼女を押し潰そうとする。

 

「『変な投げ方』で勝負するんなら、わしも負けとらんけぇ」

 マウンドの中央。理子は山内が残した足跡を、自分のスパイクで乱暴に踏み固めた。

 ゆっくりと、身体を沈める。

 リリースポイントは、地表数センチ。

 

 三万人の罵声が降り注ぐ中、理子はメガネを押し上げ、ドラゴンズの一番・正田を睨み据えた。

「お化けフォークに、UFO投法……。賑やかな街じゃね、ほんまに」

 理子の右手が、地面を削り取る。

「……潜水艦サブマリンの毒、じっくり味わってもらいましょうか」

 一回裏。

 広島の空に、今度は「下から這い上がる」魔球の旋回が始まる。

 それは、秩序を破壊する、美しき崩壊の始まりだった。


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