第8話
吉井理子物語 第8話
四月、幕張。
海から吹き付ける湿った風が、マリーンシーガルズの本拠地・シーサイドスタジアムを冷たく撫でていく。
ベンチに深く腰掛けた吉井理子は、目の前の光景に、思わず舌打ちを飲み込んだ。
「……ここは、墓場か」
一塁側、ホームチームのスタンド。そこには、開幕戦を祝う熱気など微塵もなかった。
空席だらけのベンチには、試合を見ずにラジオを聴く老人や、あちこちで酒盛りを始める中年たちの姿がある。どこかの阿呆がコンロを持ち込んだのか、風に乗って肉の焼ける脂っこい匂いが漂ってきた。メジャーの、地鳴りのような歓声がスタジアムを震わせ、空気が熱を持って膨張するあの感覚とは正反対の、冷え切った怠惰。
ポケットの中のライターが、やけに重く感じられた。
(吸うたら、負けじゃ……)
BBQの煙が、理子の喉をいやらしく刺激する。彼女は指先の震えを隠すように、膝の上で強く拳を握った。
対照的に、三塁側スタンドは「赤」に染まっていた。
博多明太バッツ。
整然と振られる巨大な旗、統制の取れた応援歌。王者の威厳を背負ったその軍団は、まるでこれから処刑を始める騎士団のような静かな殺気を孕んでいる。
この「温度差」こそが、今のシーガルズが置かれた残酷な立ち位置そのものだった。
「プレイボール!」
球審の声が、閑散としたスタジアムに虚しく響く。
マウンドには、右肘を過剰なまでのテーピングで固めた黒木大地が立っていた。
初回のマウンド。黒木は、バッターボックスの一番・陽を、蛇を睨むような目で見据えた。
(……昨日の言葉、覚えとるか、黒木さん)
理子はベンチの奥から、その背中を凝視する。
『やる気ないなら、さっさとユニフォーム脱ぎんさい』
その言葉は、黒木の中に残っていた最後の燃えカスを、爆発させるための点火剤になったのだろうか。
黒木が大きく振りかぶる。
ギチリ、と肘のテーピングが軋む音が、ベンチまで聞こえてきそうだった。
一球目。内角、膝元を抉るようなストレート。
ドォォンッ!
捕手・實森のミットが、悲鳴を上げるような音を立てた。
百四十七キロ。数字以上の「重さ」がそこにはあった。
陽が、驚きに目を見開く。続く二球目、三球目。黒木は逃げなかった。壊れかけた腕を、まるで今日この瞬間に使い切るかのように振り抜いていく。
「……三振!」
一番、陽。見逃し三振。
二番、山下。外角に逃げるスライダーに、バットが空を切る。
三番、金子。王者の主砲ですら、黒木の「死に物狂いの殺気」に圧され、平凡な三振に倒れた。
三者連続三振。
スタジアムの一部から、乾いた拍手がまばらに起こる。
だが、そのほとんどはバッツ側の「驚き」によるものだった。
黒木は表情一つ変えず、顎から滴る汗を手の甲で拭った。
ベンチに戻ってくる彼の歩みは、わずかに引きずっているようにも見える。右腕はすでに不自然に充血し、熱を持っていた。
「……やるじゃねえか、あのオッサン」
理子は小さく呟き、ようやく指先の力を抜いた。
チームは腐っている。フロントも、観客も、このスタジアムを取り巻くすべてが死んでいる。
だが、マウンドの上のあの男だけは、まだ「野球」を葬り去ってはいなかった。
理子のメガネに、黒木が放った最後の一球の残像が焼き付いている。
彼女の中にあった「たいぎぃ(面倒くさい)」という逃げ道が、一球ごとに塞がれていく。
「……黒木さん。あんた、そんなにまでして、何を証明したいんね」
一回表、無失点。
奇跡のような三者凡退から、マリーンシーガルズの反撃――あるいは、さらなる絶望への序曲が幕を開ける。
一塁側ベンチの隅。理子は、じっと自分の右手の平を見つめた。
その感触は、まだ。
まだ、あのメジャーの硬いマウンドを覚えている。
「さて……次は、あの娘の番か」
理子の視線の先、明太バッツのマウンドへ向かう若田部千夏の背中があった。
太陽の下を歩くエリートと、泥沼を這う敗残者。
理子の瞳に、黒木が灯した火が、静かに、だが確実に燃え移っていた。




