第7話
吉井理子物語 第7話
時間を少し戻そう。
三月某日、開幕戦のプレイボール一時間前。
千葉マリーンシーガルズのロッカールームは、プロの戦場とは程遠い、淀んだ「沼」のような空気が充満していた。
誰かの鼻歌。スマホから漏れる安っぽいゲームの効果音。
ロッカーの隅では、控えの選手たちが昨夜観たテレビ番組の話で盛り上がっている。そこには、王者に立ち向かう高揚感も、負けられないという悲壮感もない。ただ、決められた業務をこなす前の、サラリーマンのような倦怠だけがあった。
理子はパイプ椅子に深く腰掛け、その光景を冷めた目で眺めていた。
(たいぎぃのぉ……。ほんまに、死体安置所におるみたいじゃわ)
広島で吸ったタバコの味が、ふと口の中に蘇る。彼女が求めていたのは、もっとヒリついた、魂が削れるような緊張感だった。メジャーのマウンドで感じた、あの喉が焼けるような孤独。それに比べれば、ここはあまりにも温るい。
だが、その澱みの中で、一人だけ異質な音を立てている男がいた。
開幕投手の、黒木大地だ。
黒木は無言で、利き腕の右肘に何重にもテーピングを巻き付けていた。皮膚が赤く変色するほど強く、無理やり関節を固定していく。その傍らには、強力な消炎鎮痛剤の空き瓶が転がっていた。
「黒木さん。それ以上巻いたら、感覚が狂うよ」
理子の言葉に、黒木は手を止めなかった。
「狂っていいんだよ。感覚があるうちは、痛くて腕が振れねえ」
彼はグラブを手に取り、掌で激しく叩いた。パンッ、パンッ、と乾いた音が静かな部屋に響き、談笑していた選手たちが一瞬、不快そうに顔をしかめる。
「勝てるんか、これで」
黒木がぽつりと呟いた。周囲の選手には聞こえない、理子だけに向けられた吐露。
「……勝てるかどうかは、知らん。けど、あんたが一人で背負う必要もないじゃろ」
「背負わなきゃ、このチームは一イニングも持たねえんだよ。吉井……お前はまだ投げなくていい。俺が、この泥を全部被ってやるからな」
黒木の瞳には、折れかけた人間が最後に縋り付く「義務感」という名の炎が灯っていた。
同時刻。
スタジアムの反対側、三塁側の博多明太バッツのミーティングルーム。
そこは、シーガルズとは対照的な「研ぎ澄まされた戦場」だった。
若田部久志監督の背後、上座の特等席には『藤井バッツ人形』が鎮座している。選手たちは誰一人としてふざけることなく、その人形を一瞥してから自分の席に着く。亡きエースの魂が今も自分たちを見ている――その狂信的なまでの結束が、彼らを常勝軍団にたらしめていた。
「いいか。相手は死にかけの老いぼれと、メジャーを追い出された女のチームだ」
若田部の声は、冷徹なまでに響く。
「だが、ネズミ一匹でも、噛まれれば毒が回る。我がバッツの野球は一点の曇りも許されない。いいな、五回までに息の根を止める。コールドで終わらせ、千葉のファンに我々の格の違いを見せつけてやれ」
「はいッ!」
選手たちの怒号のような返声が、壁を震わせ、建物全体を揺らした。
その最前列、先発マウンドを託された若田部千夏が、不敵な笑みで指先を鳴らした。
彼女は、父であり監督である若田部の期待という重圧を、むしろ最高のスパイスとして楽しんでいるようだった。
「任せてください、監督。相手に『野球ってこんなに難しいんだ』ってことを、一から教えてあげますよ」
彼女の手には、最新のデータが解析されたタブレットではなく、一球の使い古したボールがあった。千野から伝承された「お化けフォーク」。それは、打者の視界から消える、物理法則を無視した絶望の象徴だ。
「……吉井理子。メジャーのカットボール? 楽しみにしてたけど、私の出番だけで試合が終わっちゃいそうね」
千夏が席を立つ。その歩みには迷いがない。太陽の下で輝くエリートの傲慢さと、それを裏付ける圧倒的な研鑽。
一方は、ボロボロの肘をテーピングで固める「過去の遺物」。
一方は、亡き英雄の魂を背負い、魔球を操る「未来の希望」。
そして、その両方を冷ややかに見守りながら、自らの「再起動」を待つ吉井理子。
スタジアムの外では、海風が一段と激しさを増していた。
まもなく、惨劇という名の開幕が訪れる。
ロッカールームを出る際、理子は徳田オーナーとすれ違った。
徳田は、いつも通りマテ茶を啜り、パイプを燻らせていた。
「吉井君、いい顔になりましたね」
「……嫌味はやめてください。これから、死体を見に行かんといけんのじゃけ」
「死体? 違いますよ。あれは、新しい生命が生まれるための『苗床』です」
徳田が笑う。その不気味な期待を背中に感じながら、理子は薄暗いトンネルを抜け、光り輝くグラウンドへと足を踏み出した。
視界に飛び込んできたのは、赤く染まった三塁…




