第6話
吉井理子物語 第6話
二〇三〇年、三月末。
プロ野球開幕。その華やかな喧騒は、千葉の海岸沿いにあるシーガルズの本拠地、潮風で錆びついた「シーサイド・スタジアム」をも飲み込もうとしていた。
だが、スタジアムを埋め尽くしたのは、地元のファンの声援ではない。ビジター席を真っ赤に染め上げた、昨年度王者「博多明太バッツ」の圧倒的な応援団だった。
明太バッツ。名将・若田部久志率いるそのチームは、今や日本野球界の頂点に君臨している。ベンチには、若田部の盟友であり、若くして世を去った伝説の投手・藤井正雄を模した『藤井バッツ人形』が置かれている。三十年の時を経てもなお、彼らの絆は枯れていない。
対する千葉マリーンシーガルズのベンチは、通夜のような静寂に包まれていた。
開幕投手。その重責を担うのは、吉井理子ではなかった。
「……黒木さん。あんた、その指、震えとるよ」
理子がダッグアウトの隅で、ボロボロのグラブを握りしめる黒木大地に声をかけた。
黒木は三十四歳。全盛期の球威は失われ、度重なる酷使で肘は悲鳴を上げている。今のシーガルズで「開幕を任せられる」のは、皮肉にも、負け続けても壊れなかった彼だけだった。
「……震えとりゃせんよ。ただの寒気だ」
黒木が、無理やり作ったような笑みを浮かべる。
「吉井。オーナーに聞いたぞ。お前、三年の契約で『成果』が出なきゃ辞めるんだってな」
「……ええ。中途半端に居座る気はないけぇ」
「贅沢な話だ。俺にはな、辞める場所も、辞める理由もない。……今日打たれたら、もう終わりかもしれねえのにな」
黒木の言葉には、諦念を通り越した「重み」があった。
坂本監督が、黒木にボールを渡す。エースとしてではなく、今日一日の、最も過酷な弾除けとしての役割を期待した「非情の継投」の始まりだ。
「プレイボール!」
球審の声が、潮風に乗って響いた。
明太バッツの一番、陽。若さ溢れる期待の長距離砲だ。
黒木がマウンドで大きく振りかぶる。その動作は、どこか痛みをこらえているようにも見えた。
一球目。外角低め、渾身のストレート。
――バキィッ!
鈍い音がして、ボールは鮮やかに右中間を破った。
「……ああ」
ベンチの誰かが、溜息をつく。
続く山下、金子。明太バッツのクリーンアップは、容赦なく黒木の「魂の抜けた」球を弾き返していく。一点、また一点。初回からスコアボードに並ぶ無慈悲な数字。
「……何しよんね、あの人は」
理子はフェンスを掴み、指先に力を込める。
黒木の球は、確かに重い。だが、あまりにも正直すぎる。打たれても、打たれても、彼は逃げない。壊れかけた身体を引きずりながら、相手の強打者に立ち向かっていく。その姿は、勇壮というよりは、あまりにも無惨だった。
その裏。シーガルズの攻撃。
マウンドに上がったのは、明太バッツのルーキー、若田部千夏だ。
監督の娘。だが、そのマウンド捌きはベテランの風格すら漂わせていた。
「女だからって、手加減はしないわよ」
千夏の瞳が、シーガルズの一番・加藤を射抜く。
彼女の右腕から放たれたボールは、打者の手元で「消えた」。
――お化けフォーク。
かつての名投手の魂を受け継いだ、重力に逆らう魔球。シーガルズの打陣は、面白いように空を斬らされた。
三回表。黒木はすでに四点を失っていた。
それでも彼は、マウンドを降りようとしない。肩を回し、顔を歪め、指先の感覚を確かめるように何度もロジンを触る。
バックネット裏。徳田オーナーが、マテ茶を啜りながら呟いた。
「壊れながら投げる人間。それを冷ややかに見守る崩壊の目撃者たち。……最高の舞台整列だ」
理子は耐えきれず、ベンチを飛び出した。
「黒木さん!」
叫んだ言葉は、大歓声にかき消される。
黒木が振り返った。その顔は、汗と泥にまみれ、鼻血が伝っていた。強襲安打を身体で止めた痕だ。
だが、その目は笑っていた。
「吉井……。これが、このチームの『現実』だ。お前は、この泥の中に飛び込んでくる勇気があるか?」
黒木が放った次の一球。
それは、この日最速の百四十五キロ。
バットを粉砕し、内野ゴロに仕留めた。
理子は、動けなかった。
壊れている。チームも、黒木も、自分も。
だが、その壊れた残骸の中から、確かに何かが熱を持って蠢き始めている。
理子のメガネの奥に、かつてないほど鋭い「プロの殺気」が宿った。
「……たいぎぃのぉ、ほんまに」
理子は、自らの右腕を強く、強く擦った。
壊れた場所からしか、見えない景色がある。
黒木大地の「終わりの始まり」を見届けながら、吉井理子は自分の出番――「崩壊の完遂」の瞬間を、静かに、そして苛烈に待ち構えていた。
試合はまだ、始まったばかりだ。
広島の誇り…




