第5話
吉井理子物語 第5話
翌朝、グラウンドには昨日の熱気など微塵もなく、ただ冷ややかで重い沈黙が横たわっていた。
理子がスパイクで土を噛み締めるたび、背中に刺さる視線が皮膚をピリつかせる。それは新入りへの好奇心ではない。部外者が聖域を汚したことへの、粘着質な敵意だ。
理子は周囲を無視し、一人ブルペンへ向かった。
「ブルペン、使わせてもらうよ」
「……勝手にしな」
返ってきたのは、投げやりな返事だった。
昨日の捕手・佐々木の横で、一人の男が壁に背を預けていた。名を梶原という。三十代前半、無精髭を生やし、かつて「精密機械」と呼ばれた右腕は、今や慢性的な炎症で一日の投球数が制限されている。このチームの「絶望」を体現する、象徴的なベテランだ。
理子は黙々とセットポジションに入る。
低く、地を這うようなテイクバック。指先がマウンドの土をかすめ、空気を切り裂く。
――ビュンッ!
乾いた音がブルペンに鳴り響く。昨日の佐々木の時よりも、球筋に「怒り」が混じっていた。
「……で?」
梶原が、低く濁った声で言った。
「それがどうした。一球や二球、いい球を投げたところで、何が変わる。ここはメジャーじゃねえんだ。どんなに腕を振っても、最後は泥沼に沈むだけなんだよ」
理子は投球動作を止め、梶原をメガネ越しに睨んだ。
「あんた、さっきから何をぶつぶつ言いよん。野球しに来たんじゃないんか」
「野球?」
梶原が自嘲気味に笑い、理子に歩み寄る。
「お嬢さん、ここはな、頑張った奴から順番に壊れていく場所なんだよ。フロントは再建なんて口先だけ。負けが込めば監督が首を切り替えられ、俺たちの肩や肘は使い捨ての消耗品だ。必死に投げたところで、明日の朝には忘れられてる。……やるだけ、無駄なんだよ」
その言葉は、理子の古傷をえぐった。
メジャーで、勝てなくなった自分に浴びせられた罵声。結果が出なければ昨日までのヒーローが石を投げられる。その恐怖を、彼女は誰よりも知っている。
「……だから、戦う前に白旗上げとるんか」
理子の声が、一段と低くなる。
「はあ?」
「負ける理由を、組織のせいに、身体のせいに……。そうやって言い訳のバリケードを築いて、その中で震えとるだけじゃろ。楽ですね、梶原さん。そうやって腐っとれば、誰にも期待されんで済むもんな」
「……調子に乗るなよ、小娘」
梶原の瞳に、初めて暗い炎が宿った。彼は一歩、理子のパーソナルスペースを侵すほどに詰め寄った。
「お前がメジャーで何を学んだかは知らねえがな、このチームの敗北の歴史を背負ってから口を開け。俺たちはな、もう何度も、お前みたいな『救世主気取り』が潰れるのを見てきたんだよ」
「……わしは救世主なんかじゃない」
理子は逃げなかった。梶原の吐き出すヤニ臭い息が顔にかかる距離で、彼女は言い放った。
「わしも、あんたらと同じ負け犬よ。メジャーで追い出されて、居場所がなくて、ここに来た。……けどな、負け犬にも意地はあるわ」
理子は足元のボールを拾い、梶原の胸元に無理やり押し付けた。
「負けるのが当たり前になっとる今のあんたら、最高にダサいわ。……やるならやる、やめるならさっさとユニフォーム脱いで消えんさい。中途半端な死体と一緒におるほど、わしゃ暇じゃないけぇ」
グラウンドのあちこちで、選手たちが動きを止めていた。
梶原の拳が、理子の胸ぐらを掴もうとして――震え、止まった。
理子の瞳に宿った「何か」が、彼の枯れ果てたはずの闘争心に、毒のように回ったのだ。
「……勝手にしろ」
梶原は吐き捨て、背を向けて去っていった。だが、その歩みは先ほどまでの重い足取りとは、わずかに違っていた。
バックネット裏。徳田オーナーが、パイプから上る紫煙を眺めていた。
隣には、冷めきったマテ茶。
「いいですね……」
徳田は、満足げに目を細めた。
「吉井君、君は期待通りの『火種』だ。組織が再生するためには、まず膿を出し切らなければならない」
彼はパイプを叩き、灰を落とした。
「ようやく、“壊れ始めた”。これからが本番ですよ、吉井理子君」
海沿いの球場に、強い風が吹き抜ける。
それは、古い秩序をなぎ倒す、崩壊の序曲だった。
理子は一人、再びマウンドへ向かう。
右手のグローブを強く締め直した。
もう、後戻りはできない。
彼女は、この「墓場」で、自分自身を、そしてこの死んだチームを、もう一度殺す決意を固めていた。




