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吉井理子物語  作者: 水前寺鯉太郎


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第4話

吉井理子物語 第4話


 千葉マリーンシーガルズの二軍練習場、通称「墓場」に、吉井理子は立っていた。

「……今日から、契約しました。吉井理子です。よろしくお願いします」

 

 理子の声は、ひび割れたコンクリートの壁に反射して虚しく消えた。

 目の前のグラウンドでは、ユニフォームを泥で汚すことすら惜しんでいるような、だらけ切った練習が続いていた。キャッチボールの相手を見つけるのにも一苦労する有様だ。

 壁際では、かつてFAで他球団へ移籍した選手が残した『ここを出られて本当に幸せだ』という週刊誌の記事が、誰かの嫌がらせのように今もピンで留められている。

「おい、パンダが挨拶しとるぞ。お前ら、拍手くらいしてやれよ」

 

 鼻で笑うような声。

 声の主は、チームの最古参捕手・佐々木だった。かつては名捕手と謳われた男だが、今はブヨブヨに弛んだ腹を隠そうともせず、ベンチでスポーツ新聞を広げている。

「メジャー帰りのお嬢様が、こんな掃き溜めに何の用だ? ここはサイン会会場じゃねえぞ」

 

 周囲から下卑た笑いが漏れる。

 理子の奥歯がガリ、と軋んだ。故郷の言葉が喉元までせり上がる。

(おどれ、誰に向かって口を……)

 だが、理子は拳を握りしめ、強引にそれを飲み込んだ。ここで吠えても、ただの「扱いにくい女」で終わる。この世界の黙らせ方は、たった一つしかない。

「……佐々木さん、でしたっけ」

 理子は足元に転がっていた、縫い目の擦り切れたボールを拾い上げた。

「練習相手、おらんのです。一球だけ、受けてもらえんですか?」

「あぁ?」

「お嬢様の球を受けるのが怖いんなら、別にええですけど」

 佐々木が顔を引き攣らせた。煽りに乗ったのは明らかだった。

「……おい。誰か、ミット持ってこい。メジャーの『お土産』とやらを拝ませてもらおうじゃねえか」

 理子はマウンドに向かった。

 マウンドと言っても、穴が掘れ、雑草の生えかけた無惨な土だ。

 彼女はゆっくりと息を吐き、右腕をだらりと下げた。

 ――セットポジション。

 その瞬間、理子の身体が深く、深く沈み込む。

 地面を擦らんばかりの低いリリースポイント。メジャーのスカウトが『アリゾナの砂塵ダスト』と恐れた、彼女独自のアンダースローだ。

 ビュッ!

 指先が地面を叩くような鈍い音。

 放たれた白球は、土煙を巻き上げるようにして直線的に放たれた。

 佐々木のミットが構えられた場所よりも、さらに低い。

「っ……!?」

 ボールが、ベースの手前で「跳ねた」ように見えた。

 ホップするアンダースロー。

 ドンッ!

 鈍い、重低音。佐々木のキャッチャーミットが、その威力に負けて弾き飛ばされそうになる。

「……今の、なんだ」

 

 グラウンドのあちこちで、私語が止まった。

 理子は無表情のまま、二球目を要求する。今度は内角、バッターの膝元へ食い込む一撃。

 佐々木が思わず「うわっ」と声を上げ、尻餅をつくようにして避けた。ボールは審判の立ち位置を正確に射抜く。

「……逃げたら、当たりますよ」

 

 理子の声は、冷たく、静かだった。

 メガネの奥の瞳が、獲物を狙う鷹のように佐々木を射抜く。

「メジャー帰りのお嬢さんじゃ思うて舐めとるんなら、やめた方がええ。わしは、あんたらの機嫌取りに来たんじゃないけぇ」

 

 彼女はグラウンドを見渡した。

「野球で飯食う気がないなら、今すぐ帰りんさい。ここは、わしのマウンドになる場所じゃけぇ」

 沈黙。

 さっきまでの嘲笑は、どこにもなかった。

 ネットの影で、徳田オーナーが静かにパイプを燻らせていた。

 

 火がついた。

 だが、それは希望の火ではない。

 一人の女投手が、死んだ群れを食い荒らすための、剥き出しの闘争の狼煙だった。

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