第3話
吉井理子物語 第3話
徳田は、灰皿の端でパイプの灰を静かに落とした。その動作一つに、逃げ場を塞ぐような圧迫感がある。
「案内しましょう。我が千葉マリーンシーガルズの『心臓部』へ」
促されるままに、理子は重い鋼鉄の扉を抜けた。
――瞬間、理子の鼻をついたのは、饐えた汗と、手入れを放棄された古い土の臭いだった。
視界に飛び込んできたグラウンドを見て、理子は立ち尽くした。
「……なんや、これ。なんの冗談な」
呆れを通り越し、背筋が寒くなった。
ブルペンでは投手が、お喋りに興じながら山なりの球を投げている。内野陣のノックは、足を使わず手先だけで捕球し、エラーしても誰も声を上げない。
極めつけはベンチだ。ユニフォームをはだけさせた男たちが、スポーツ新聞を広げ、昨夜の飲み会の話を大声で笑い飛ばしている。
メジャーの、あの血を吐くような一枠の争い。
マイナーの、這い上がるために泥水を啜るようなハングリー精神。
ここにあるのは、そのどちらでもない。ただの、**「終わった人間たちの安置所」**だった。
「みんな、やる気無ぁですやん」
理子の広島弁が、怒りで震える。
「こんなゴミ溜めみたいなところで、わしに何をしろ言うんですか。立て直す? 笑わせんといて。ここはもう、死んどる」
すれ違う選手が、理子を「パンダ(客寄せ)」でも見るような舐めた視線で見ていく。挨拶はない。敬意もない。
「その通り。死んでいますよ、彼らは」
徳田は平然と言い放った。
「かつては有望だった。だが、怪我や挫折で、一度心を折られた。自分はもう、この程度なのだと。そう自分に言い聞かせて、残りの給料を消化するためだけにユニフォームを着ている」
「……胸糞悪い」
「君も、彼らと同じではないのですか?」
徳田の言葉が、理子の喉元に突き刺さる。
「何も残せなかった自分、通用しなかった自分。その現実から逃げるために、広島の片田舎でタバコを燻らそうとしていた。死んでいるのは、君も同じだ」
「……ふざけんなや」
理子は徳田の胸ぐらを掴み上げた。だが、徳田の瞳は揺るがない。
「怒れるなら、まだ脈はある。いいですか、吉井君。勝者は勝ち方しか知らない。だが、君のような『負け犬の王』なら、彼らに絶望の底からの這い上がり方を教えられる」
理子が手を放したとき、ベンチの端に座っていた一人の青年に目が止まった。
右肩に分厚いアイシング。年齢は理子より二、三下だろう。その少年のような瞳が、理子の右手の「マメ」をじっと見つめていた。
「……あの、吉井さん」
蚊の鳴くような声だった。
「あなたの、あのメッツ時代の……二年前のヤンキース戦。あのカットボール、僕、録画して千回は見ました。あんな球、僕もいつか……」
青年の言葉は、そこで途切れた。自分のボロボロの肩を自嘲するように見つめ、また俯いた。
理子の胸の奥で、カチリ、と音がした。
自分を呪っていたあの一球を、まだ宝物のように抱えているバカがいる。
――こんなゴミ溜めに、そんな奴を置いておけるか。
「……たいぎぃのぉ」
理子は髪を乱暴にかきむしり、徳田に向き直った。
「オーナー。一つ、条件があるわ」
「聞きましょう」
「契約は三年。その間に、この腐ったチームをAクラスまで引き上げてやる。……もしできんかったら、わしは潔く野球を辞める。グラブも全部、マウンドに埋めてやるわ」
「成果が出なかった時は?」
「好きにしんさい。永久追放でも、死刑でも」
理子の言葉に、徳田は初めて、冷徹な経営者の顔を崩して笑った。
「いいでしょう。君を、千葉マリーンシーガルズのエースとして迎え入れます。契約金は……君の再起を賭けるにふさわしい額を用意させましょう」
その夜。
千葉の安ホテルで、理子は広島の実家に電話をかけた。
「……父ちゃん。結局、受けることにしたわ」
窓の外、幕張の夜景が広がっている。
『……そうか』
短い沈黙の後、大地の低く重い声が響く。
『三年間。……死ぬ気で、腕を振ってこい。廿日市の人間が、途中で尻尾巻いて逃げたなんて話、わしゃ聞きたくないけぇな』
「分かっとる。……もう逃げんよ」
電話を切った理子は、ホテルの鏡に映る自分を見つめた。
メガネの奥の、死んでいた瞳に、青白い炎が宿っている。
「三年間……。もう一回だけ、地獄を見てやるわ」
彼女の第二のプロ生活。それは、希望に満ちた門出などではない。
泥を啜り、呪いを食らい、自分自身を証明するための、血みどろの戦争の始まりだった。




