第2話
吉井理子物語 第2話
三日後。吉井理子は、五月晴れの幕張駅に立っていた。
母に背中を押された……というより、物理的にタクシーに押し込められた結果だ。
「……たいぎぃのぉ。なんでわしが」
海風が吹き抜ける駅前。高層ビルが立ち並ぶ風景は、広島ののどかな景色とも、ニューヨークの騒々しい摩天楼とも違う。その無機質な美しさが、今の自分の空虚さに冷たく突き刺さる。
「吉井理子さんですね」
黒塗りのセダンから、一人の男が降りてきた。
「お待ちしておりました。オーナーがお呼びです」
「……勝手なこと言いんさんな。まだ入るとは決めとらん」
理子は吐き捨てるように言ったが、男は無表情にドアを開けたまま動かない。
ここで逃げ出せば、廿日市に戻っても居場所はない。理子は小さく舌打ちし、重い足取りで車に乗り込んだ。
車を走らせること十分。
見えてきたのは、スタジアムの華やかさとは程遠い、潮風に晒されて外壁が剥げかけた二階建ての建物だった。
『千葉マリーンシーガルズ・クラブハウス』
看板は斜めに傾き、入り口には泥のついたスパイクが転がっている。
「……ここが本拠地? 冗談じゃろ」
メジャーの豪華なロッカールームを知る理子には、それが部活動の部室程度にしか見えなかった。
中に入ると、廊下には古びた湿布と土の臭いが立ち込めていた。
壁に貼られた星取表は、黒いバツ印の山だ。見るに耐えない惨状。今の自分の成績表を見せられているようで、胃の奥が疼く。
「率直な感想を聞かせてほしいな」
廊下の奥、唯一重厚な木の扉が開いた。
部屋の中には、パイプ煙草の紫煙が充満していた。
デスクに足を投げ出し、片手に銀のカップ――マテ茶を携えた男。
徳田明宏。この死に体のような球団を買い取ったという、変わり者のオーナーだ。
「南米かぶれが、優雅なもんじゃね」
理子の嫌味に、徳田は小さく喉を鳴らして笑った。
「マテ茶は、肉食の彼らの活力源だ。今のうちの連中には、このくらいの刺激が必要だと思ってね」
彼はゆっくりと立ち上がり、理子の前まで歩み寄った。その瞳は、昼行灯のような外見とは裏腹に、獲物を狙う鷹のように鋭い。
「単刀直入に言おう。吉井理子、君にこのチームのエースになってもらいたい」
「断るって言ったら? わしはもう、壊れかけの五勝投手よ。適任なら他にもおるじゃろ」
「いないよ」
徳田は即答した。
「君は、自分がなぜメジャーで勝てなかったか、分かっているのか?」
「……なんだと?」
「球速か? 変化球のキレか? 違う。君は、マウンドで孤独になることを恐れた。だから、勝負どころで置きにいった球を打たれたんだ」
心臓を素手で掴まれたような感覚だった。あのヤンキースタジアムでの、最後の一球。自分でも気づかないふりをしていた深淵を、この男は平然と指摘した。
「……分かっとるような口をきかんといて」
理子は拳を握りしめ、彼を睨みつける。
「いい目だ。まだ死んでいない」
徳田はわずかに目を細めると、パイプを置き、背後の重い鋼鉄の扉を指さした。
「君を呼んだのは、過去を掘り返すためじゃない。君が“首を振れない理由”を、ここで見せるためだ」
「……理由?」
「来たまえ。ここに、君の『共犯者』がいる」
徳田が扉を開ける。
その向こう側から、パァン、と空気を切り裂くような乾いた捕球音が響いてきた。
理子の足は、思考よりも先に一歩を踏み出していた。
この音、この振動。
嫌いになったはずの野球が、再び彼女の鼓動を強く刻み始める。
「さあ、見なさい。君が再び輝くための、最後のピースだ」
扉の向こうに広がる景色を前に、理子は息を呑んだ。




