第1話
吉井理子物語 第1話
二〇三〇年、四月。
プロ野球の開幕に沸く日本列島の片隅で、一人の女が死んだ魚のような目で新幹線の窓を眺めていた。
吉井理子、二十五歳。
三年前、高卒から日本の女子プロ野球を経て、鳴り物入りでニューヨーク・メッツへ渡った「天才」の成れの果てだ。
メジャー通算、三年間でわずか五勝。
マイナーの砂埃にまみれ、最後は肘を痛めて解雇された。
広島県廿日市市。
廿日市駅の改札を出ると、潮の香りと埃っぽさが混じった故郷の空気が肺に流れ込む。
右手に残る、使い古したグローブが詰まった重いスーツケースが、今の彼女の全財産だった。
「……お帰り、理子」
駅前に停まった古い軽トラック。運転席の父・大地は、娘の顔を見ようともせず、ただ前を見据えて言った。
「……ああ。ただいま、父ちゃん」
理子は助手席に乗り込み、深く帽子を被り直す。
「三年間、お疲れじゃったな」
「……ええけ。何も言わんで。疲れたけぇ……しばらく、休ませてや」
大地はそれ以上、何も聞かなかった。エンジンの震動だけが、理子の疲れ切った身体に伝わってくる。何も残せなかった自分を、故郷の山々が無言で嘲笑っている気がした。
それから五日間。理子は実家の自室に引きこもった。
メジャーでの登板試合を録画したタブレットは一度も開いていない。野球のニュースも、ネットの書き込みも、すべて遮断した。自分はもう、終わったのだ。
「理子、あんたに手紙。千葉からよ」
母・真理子が部屋のドアを叩いた。差し出された封筒の差出人を見て、理子は眉をひそめる。
『千葉マリーンシーガルズ』
聞いたことがない。女子プロ野球の新設球団か、あるいは独立リーグの類か。
「マリーンシーガルズ?……知らんわ。どうせろくなもんじゃない」
「封くらい開けてみんね。あんた宛に、わざわざ速達で来とるんよ」
理子は投げやりな手つきで封を切った。中から出てきたのは、ワープロ打ちの無機質な書面。だが、その最後の一行に、理子の指が止まった。
『我々は、貴女が二年前の五月、ヤンキースタジアムで投げた、あの九十二マイルのカットボールを忘れていません。あの球を、もう一度見たい』
心臓がドクン、と跳ねた。
あの日。一点差、満塁の場面。自分を信じて投げ、そしてサヨナラ満塁本塁打を浴びた、忌まわしい一球。自分ですら「あれで終わった」と呪っていたボールを、この誰かも知らないスカウトは「見たい」と言っている。
「……はぁ、たいぎぃ。もうええって。野球なんか、見とうない」
理子は手紙を机に叩きつけ、テラスへ逃げるように出た。
ジャージのポケットを探り、古いライターと、駅の売店で数年ぶりに買ったタバコを取り出す。
三年間、一度も口にしなかった。マウンドで指先の感覚を狂わせないために、あんなに欲しかった煙を絶ってきたのだ。
シュボッ、と火が灯る。
吸い込もうとした瞬間、横から伸びてきた手がそれを奪い取った。
「何しよんね、あんた!」
母の真理子だった。
「返してや。母ちゃんには関係ないじゃろ」
「関係あるわい! あんたが血の滲むような思いでその煙を我慢しとったのを、誰が見てきたと思うとるんね」
母の目は、怒りよりも悲しみに満ちていた。
「返してや、じゃなぁの。あんたに手紙が届いたいうことはな、まだあんたを必要としとる場所があるいうことや。メジャーで五勝しかできんかったことが、なんね。あんたはまだ、二十五よ」
「……」
「受けるだけ受けてみんさい。その根性なしの煙を吐く前に、一回くらい、思い切り腕を振ってみんね」
母が去った後、理子は一人テラスに残された。
風に乗って、遠くから子供たちが野球に興じる声が聞こえてくる。
右手の指先が、無意識にボールの縫い目を探すように動いた。
九十二マイル。あの時、確かに指にかかった感触。
理子は部屋に戻り、ゴミ箱に捨てようとしていた封筒を拾い上げた。
「……母ちゃん」
「なんね」
台所から声が返る。
「その手紙の送り先。……電話番号、書いてあったよな」
理子の瞳に、小さな、だが消えない火が灯った。
挫折の底。潮騒の街、廿日市。
ここから、吉井理子の「第二の初登板」へのカウントダウンが始まった。




