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吉井理子物語  作者: 水前寺鯉太郎


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55/56

第55話

吉井理子物語 第55話


 三回裏。

 西鉄モンキーズの攻撃が、静かに牙を研いでいた。

 理子はここまで、二回を無失点で切り抜けていた。新フォームは機能している。山川を三振に、佐々木を外野フライに仕留めた自信が、指先に宿っていた。

 だが、野球の魔物は、自信の隙間に住んでいる。

 四番・永井尚志がバッターボックスへ向かう。

 西鉄の若き象徴。走攻守揃った天才と呼ばれる男だ。だが、理子が最初に感じたのは「天才」への畏怖ではなかった。

(……静かな奴じゃね)

 永井は打席に入る際、誰とも目を合わせない。理子も、實森も、審判も。ただ、ボールだけを——まだ存在しない、これから投じられるボールだけを——見ているような目をしていた。

 實森がサインを出す。外角低め、シンカー。

 理子は頷いた。

 初球。

 新フォームから放たれたシンカーが、外角の低めへと沈んでいく。完璧なコースだった。

 永井は、見送った。

 ボール。

(……低すぎたか)

 二球目。內角シュート。

 永井はわずかに体を開き、ファウルにした。だが、その「ファウルの仕方」が違った。打ち損じではない。明らかに、狙って引っかけた。

(……球を、殺しとる)

 理子の眉が、僅かに寄った。

 三球目。實森のサインは、超スローカーブ。

 山川を仕留めた球だ。理子は頷いた。

 放たれた白球が、夜空に大きな弧を描く。時速八十キロ。

 永井のバットが、静かに出た。

 ――ッガァァン!!

 乾いた、しかし重い音。

 理子は打った瞬間に悟った。

(……抜けた)

 打球は低い弾道で、一直線にレフトスタンドへ向かう。

 鈴木明美が後退する。フェンスが迫る。

 越えた。

 ソロホームラン。一対〇。

 永井はダイヤモンドを、静かに、しかし確実な足取りで一周した。ガッツポーズはない。叫びもない。ホームベースを踏んだ後、ただベンチへ戻るだけだった。

 理子はマウンドに立ち尽くし、レフトスタンドをしばらく見つめた。

(……超スローカーブを、待っとったんか。山川戦を見て、頭に入れとったんか)

 實森が駆け寄る前に、理子は首を振った。來なくていい、という意味だ。

 實森は足を止め、ミットを構え直した。

(……「静かな打者」は、「嫌らしい打者」より怖い。佐々木は球数を稼ごうとしとった。じゃが、永井は最初から「一球」だけを待っとった)

 理子はロジンを叩いた。

 打たれた。

 それは事実だ。だが、この一点が何を意味するかは、まだわからない。

 西鉄のベンチで、永井が無表情のままヘルメットを外した。

 西本監督が、静かに頷いた。

 スタジアムの歓声が、じわりと引いていく。

「……ええ打球じゃったわ」

 理子は誰にも聞こえない声で呟き、次の打者を見据えた。

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