第53話
吉井理子物語 第53話
ツーボール、ツーストライク。
山川譲二がバットを長く持ち直した瞬間、スタジアムの空気が一変した。
フルカウントではない。まだツーツーだ。
だが、誰もがわかっていた——次の一球が、この対決の「答え」になると。
理子はロジンを叩き、實森のミットを見据えた。
實森はサインを出さなかった。
ただ、ミットをゆっくりと、内角低めに構える。
(……そこか)
理子は頷かなかった。首も振らなかった。
ただ、深く息を吸った。
(山川。あんた、わしの新しいフォームを「見えた」と思っとるじゃろ。超スローカーブも「読んだ」と思っとるじゃろ)
セットポジション。
重心を落とす。斜め四十五度——新フォームの構え。
山川のつま先が、わずかに動いた。
(そうじゃ。新フォームからのシュートを待っとる。賢い男じゃ)
理子の右腕が、しなった。
だが、リリースの瞬間——腕が、さらに落ちた。
完全なアンダースロー。原点回帰。
しかし、そこから放たれたのは、これまでの理子がただの一度も投じたことのない球だった。
烏丸の「鉄球」を思い出しながら、リリースの瞬間に力を溜める。
石井の「脱力」を思い出しながら、指先だけで縫い目に引っかける。
そして、自分だけの「毒」を、その一球に凝縮する。
百三十八キロ。
数字だけ見れば、理子の平均球速より遅い。
だが——。
――ズドォォン!!
山川のバットが、完璧なタイミングで振り抜かれた。
芯を食った音がした。誰もがそう思った。
だが、白球はバットの下を通過していた。
山川の体が、自分のスイングの勢いで大きく回転する。
膝が折れる。スタジアムが、一瞬だけ息を止めた。
「……ストライク! バッターアウト!!」
静寂。
そして地鳴りのような歓声。
山川は、しばらくバッターボックスに立ち尽くしていた。
やがて、ゆっくりとヘルメットを外し、理子の方を見た。
「……今の最後の球。あれは何だ」
理子はメガネを押し上げた。
「名前はまだないわ」
一拍置く。
「でも、わしが生きていく球じゃけぇ」
山川は小さく鼻で笑い、ベンチへ戻っていった。
その背中には、怒りではなく、満足に近い何かがあった。
實森がマスクを上げて駆け寄る。
「理子、今の球——」
「あぁ」
理子は實森の言葉を遮り、右腕をそっと見下ろした。
「烏丸から盗んで、石井から盗んで、メジャーの屈辱を混ぜ込んで……やっと、わしの球になったわい」
二死。
西鉄のベンチで、西本監督が腕を組んだまま、静かに目を細めていた。
隣のコーチが耳元で何かを囁く。西本は短く答えた。
「……前半戦とは別人だ。厄介なことになったな」




