第49話
吉井理子物語 第49話
七回表、全セ・リーグが一点のリードをもぎ取った。
緊迫感に包まれるスタジアムの中、岡田監督がニヤリと不敵な笑みを浮かべ、ベンチの奥へ声をかけた。
「……おい、アイス食い終わったか。出番やぞ。そらそうよ」
『全セ・リーグ、ピッチャーに代わりまして――石井一久』
「……なんじゃ、あのひょろりとした男は。本当にプロか?」
ベンチで理子が目を疑った。
マウンドに現れたのは、横浜に社会人からドラフトで入ったばかりの新人、石井一久。どこか眠たげな表情、覇気を感じさせない立ち振る舞い。だが、彼がマウンドに立った瞬間、球場全体の空気が「狂わされた」。
理子が磨き上げてきた「毒」は、緻密な計算と殺意から成る。
だが、この男からは殺意も緊張も一切感じられない。ただ、無自覚な威圧感だけがマウンドに居座っていた。
全パのバッターボックスには、今夜絶好調の新庄浩三。
「ヘイ、ルーキー! そんな眠そうな顔じゃ、僕の火は消せないよ!」
明るく挑発する新庄。石井は無表情のまま、面倒くさそうにセットポジションに入った。
初球。
「……ッ!? どこ投げとるんじゃ、あのアホは!」
理子が思わず叫んだ。
石井の手を離れた白球は、完全なスッポ抜けに見えた。だが、深い体の捻りから放たれたボールは、打者の視界を斜めに切り裂く凄まじい角度で新庄の胸元へ突き刺さる。
「ストライク!」
「……えっ。今の、狙ったの?」
新庄が困惑して石井を見る。石井はポーカーフェイスのまま、バニラアイスのことでも考えているかのような虚無の表情で返球を待っていた。
二球目、三球目。
荒れ球かと思えば、次の瞬間には針の穴を通すような精密な変化球。意図的なのか、偶然なのか。
計算ずくの「毒」で戦う理子にとって、石井の「天然」という名のカオスは、最も恐ろしい未知の領域だった。
「……あいつ、何も考えとらんのか」
一拍置く。
「……何も考えとらんことが、これほどの武器になるんか」
七回、三者凡退。
石井は涼しい顔でベンチへ戻っていく。岡田監督が「ええねん。それでええねん。そらそうよ」と、バニラアイスを手渡すのが見えた。
「……世の中、広いね」
理子はベンチに深く腰掛け、自分とは正反対の「天才」の背中を、苦々しく、しかし羨望の入り混じった瞳で見送った。




