第44話
吉井理子物語 第44話
細田亜紀子との壮絶な十三球。
スタジアムが歓喜に沸く中、マウンド上の理子だけは自分の限界を悟っていた。右肩は焼けるように熱く、指先は汗と感覚の麻痺でボールの縫い目を捉えきれていない。
(……あと一人。あと一人でええんじゃ。投げさせてくれ)
再び前傾姿勢を取ろうとしたその時、ベンチから若田部監督がゆっくりと歩み寄ってきた。
「そこまでだ、吉井」
「……監督、まだ行ける。わしはまだ、降りるつもりはないけぇ!」
鋭い眼差しで食い下がる。だが若田部監督の視線は、隠しきれない「指先の震え」を正確に射抜いていた。
「お前の『毒』は、後半戦にとっておけ。ここで使い切って、千葉の潜水艦が沈没しちゃあ元も子もないからな」
半ば強引にボールを受け取る。その声には、逆らわせない威厳があった。
理子が悔しさに唇を噛み締め、マウンドを降りようとしたその時。
三塁側ブルペンから、スタジアムの空気を一変させるような男が姿を現した。
北海道オリエンタルフライヤーズのエース——ファルード有志。
「ナイスピッチ、理子。君が撒き散らした毒の跡、僕が綺麗に片付けてあげるよ」
理子の横を通り抜ける際、わずかに口角を上げて囁く。地を這う「潜水艦」とは対照的な、高身長から放たれる「天の雷撃」。
理子はファルードにボールが渡るのを見届け、ベンチへ引き上げた。
スタンドから、惜しみない拍手が降り注ぐ。
ベンチに戻ると、真っ先に氷嚢を持ってきたのは實森だった。
「理子、お疲れ。……見てみぃ、全セの奴ら、みんなお前の球の軌道が目に焼き付いて離れん顔しとるわ」
理子は氷の冷たさに顔をしかめながら、マウンドで悠然と初球を投じるファルードの背中を睨みつけた。
「……ええ格好しおって。わしが泥水啜って作ったアウト二つを、さっさと自分の手柄にするつもりか」
文句を言いながら、しかし理子の表情には、どこか晴れやかな色が混じっていた。
自分を認め、無理にでも止めてくれる監督。自分の後を完璧に締めるライバル。實森の、何も聞かずに差し出す氷嚢。
理子は氷を肩に押し当て、目を細めた。
一人で戦っていない——その奇妙な充足感が、じわりと肩の熱に溶けていった。




