第43話
吉井理子物語 第43話
運命の十三球目。
スタジアムを支配していたのは、熱狂を通り越した「祈り」に近い静寂だった。一塁の宮本がスタートの構えを見せ、細田は低く、深くバットを構える。
理子の右肩は、既に悲鳴を上げていた。
汗で滑る指先。霞む視界。だが、寿也のミットだけは、真っ暗な闇の中に灯る道標のように、ハッキリと見えていた。
寿也が出したサインは——「超スローカーブ」。
これまでの高速シュートとスライダーで研ぎ澄まされた細田の感覚を、根本から叩き壊すための劇薬だ。
(……あのアマ。わしの球を『お箸で米を掴むよう』に捌きおって)
理子は地を這うようなフォームから、全ての力を抜いた。指先だけで白球を「置く」ように放す。
「……これでも食らっとけ、ボケェ!!」
放たれた白球は、夜空に大きな弧を描いてふわりと浮き上がった。時速、わずか八十キロ。
細田の瞳が、驚愕に見開かれる。百五十キロの衝撃を跳ね返すために極限まで緊張していた筋肉へ、あまりにも無防備で、あまりにも「遅い」球が来た。
「……っ、こんな球……っ!!」
強引にバットを止めようとしたが、一度始動した「剛」のスイングは止まらない。
虚しく空を切り裂く旋風。細田の体が、自分のスイングの勢いで大きくよろめいた。
その中心を、白球が嘲笑うようにゆっくりと通過し、寿也のミットへ収まる。
――パスッ。
「ストライク! バッターアウト!!」
一瞬の静寂の後、球場全体が地鳴りのような大歓声に包まれた。
細田は、バッターボックスに立ち尽くしたまま、マウンドを見つめていた。
理子は乱れた髪を乱暴にかき上げ、メガネの奥でこれ以上ないほど不愉快な、しかし最高に気持ちのいい笑みを浮かべた。
「……美しいだなんて、二度と言わせんけぇね」
一塁側ベンチへ引き上げる際、帽子をほんの少しだけ直して見せた。
背中越しに感じる細田の視線。ミットをポンと叩き、静かに頷く寿也。
理子は振り返らなかった。




