第38話
吉井理子物語 第38話
九回裏、ノーアウト満塁。
幕張球場を包む熱気は、潮風さえも跳ね返すほどの圧力となっていた。
点差は二点。守護神・毒島の背中には、猛毒の粉を撒き散らすような禍々しいオーラが漂っている。
一番・加藤優実が打席に入った。
百六十五キロの「火の玉」に対し、加藤は恐怖を押し殺して踏み込む。詰まりながらも執念で振り抜いた打球が、絶妙な放物線を描いて内野と外野の間にポトリと落ちた。
三塁ランナーが生還。六対五。
「……まだじゃ。まだ終わらんけぇ!」
ベンチで理子が叫ぶ。
二番・藤田咲は冷静だった。毒島の力みに乗じ、甘く入ったスライダーを最短距離で叩く。白球がセンター前へ抜けた。
六対六。同点。
球場が揺れる。スピナーズのベンチで、小笠原りこが持っていたスコアブックを握りつぶした。
だが、野球の神様は最後までドラマを用意していた。
三番・山崎幸太郎。この日最速のストレートに完全に振り遅れ、三振。一死。
静寂がスタジアムを支配する。
「……鳥居さん。あとは、あんたしかおらんわ」
理子がネクストバッターズサークルから、打席へ向かう背中を静かに見送った。
五番・鳥居來樹。
理子の「毒」を受け止め、黒木の「泥」を繋いできたベテランが、ゆっくりとバットを構える。
毒島はもはや理性を失っていた。力で、圧倒的なスピードで全てをねじ伏せようと、右腕を激しくしならせる。
真ん中低め、百六十キロを超える渾身のストレート。
鳥居の動きは、鏡のように滑らかだった。
「……野球に、虫も人間も関係ねぇんだよ」
――ッガァァァァン!!
今日一番の衝撃音が、幕張の夜空を貫いた。
打球は誰の目にも追えない速さで、夜の海へと続くレフトスタンドの遥か上空へ消えていった。
サヨナラホームラン。
ダイヤモンドを一周する鳥居。ベンチから飛び出すシーガルナイン。
理子は、泣き出しそうな、しかし最高に攻撃的な笑みを浮かべて、ホームベースに戻ってきた鳥居を力いっぱい叩いた。
「……やりおった。やりおったね、あんた!」
整列の際、理子は小笠原監督をまっすぐに見据えた。
少女は呆然と立ち尽くしている。誇る「虫の軍勢」が、泥まみれの「人間」たちの執念に完敗したのだ。
「……バルサン、持ってきたろか」
一拍置く。
「秋田まで、気をつけて帰りんさい」




