第36話
吉井理子物語 第36話
一塁ベース上で触角をカサカサと震わせる黒田。その存在だけで、マウンド上の空気は淀み、理子の背筋に冷たい汗が伝っていた。
だが、小笠原りこ監督はそれだけでは満足しなかった。
理子の瞳の奥にまだ「震え」がある。彼女はそれを見逃さない。
「……徹底的にやるわ。理太郎、次は『赤井』を出しなさい」
「監督……! それはやりすぎだ。球場の観客全員が払い戻しを要求するビジュアルだよ!」
「うるさい。ぶっ飛ばすって言ってるの」
アナウンスが幕張の夜空に響く。
『代打、黒田に代わりまして――赤井』
ベンチから飛び出してきたのは、赤茶色の光沢を放つ小柄な男だった。
レッドローチ——トルキスタンゴキブリの獣人、赤井。
黒田が「重厚な不潔感」なら、この男は「圧倒的な不快速度」の化身だ。バッターボックスに入るや否や、目にも止まらぬ速さで足場を固め、その場で高速の足踏みを始めた。
「カサカサカサカサカサッ!!」
「……ひ、一人でも死ぬほど嫌なのに、二人目ぇ!?」
理子のメガネが、恐怖の汗で曇り始める。一塁に黒田、打席に赤井。理子の視界は、もはや「地獄の台所」と化していた。
「理子! 奴らを見るな! 球だけを見ろ!」
實森の叫びが、羽音にかき消されて届かない。
赤井はセットポジションに入る一瞬の隙を突き、赤い前脚(腕)を理子へ向け、挑発するように細かく振ってみせた。
「……ああ、もう……もう我慢ならんわい……っ!」
理子の何かが、プツリと切れた。
恐怖の限界を超え、怒りすら突き抜けた——ある種の「無」の状態。
理子は大きく身体を沈め、右腕を地面と平行に、土を削るほどの低さで構えた。
(虫……虫……虫……。そんなに這いずり回りたいんなら、二度と動けんように叩き潰してやるけぇ)
指先が、縫い目を引き裂くほどの力でボールをグリップする。
放たれた一球。
それはかつてメジャーで一度だけ投じ、そのあまりの「キレ」に肘を壊しかけて封印した——禁断の高速超低空スライダーだった。
「死ねえええええ!!」
白球が地を這うように赤井の膝元へ唸りを上げる。
異常な反応速度をもってしても、この「蛇」のような軌道は予測不能だった。バットを出す暇もなく、ボールは赤井の足首をかすめてミットへ吸い込まれた。
「ストライク!!」
赤井が思わず飛び退く。その赤い顔に、初めて「恐怖」の色が浮かんだ。
マウンド上の理子は、幽霊のような無表情で、次のボールを要求した。
「……あと二人」
一拍置く。
「まとめてバルサンに突っ込んでやるわ」




